2018-09-02

肉化するダコツ⑫ 草川のそよりともせぬ曼珠沙華 彌榮浩樹

肉化するダコツ⑫
草川のそよりともせぬ曼珠沙華

彌榮浩樹



蛇笏から学びとる、俳句作品が魅力的であるための秘密。
それをめぐる極私的考察の12回目、ついに、最終回である。

蛇笏の秋の名句は、いくつもいくつも挙げられる。例えば、

をりとりてはらりとおもきすすきかな
たましひのたとへば秋のほたるかな
秋たつや川瀬にまじる風の音
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり


等々、いずれもオールタイムベスト級の逸品ばかりだが、最終回のいま、これらの句を巡っていちばん語りたいのは、<フェティッシュ>ということだ。

たとえば、「すすき」の句。わずか十七音の言語空間をすべて使って、「すすき」の精妙な感触をひたすら描出する、それも、すべてひらがな書きという奇矯なかたちで。この過度のこだわり、執着心、すなわち<フェティッシュ>。

他の句のどれも、このように<フェティッシュ>な蛇笏の目・蛇笏の指先によって俳句作品化されなければ、見過ごされてしまっただろう事象が、精妙な感覚へのこだわり、十七音の表現の機微へのこだわりによって、妖しく美しい言語作品として結晶化している。
蛇笏の名句とは、どれもこうした<フェティッシュ>による名句でもある。

フェティシズム、フェチ、偏執的、ある種病的な倒錯的な態度。
負のイメージをも孕むそうした過度なこだわりが、だからこそ底知れぬ深い味わいの作品を生む。そうしたある種の倒錯的態度こしが、極短詩である俳句においては(一つの)決定的な秘儀の核になりうる、と蛇笏の名句たちは語りかけてくるようだ。

さて、そんな<フェティッシュ>な名句群の中で、最終回の今回、掲句を取り上げたのは、蛇笏自身が作品の推敲過程を語る(垂涎ものの)文章があるからなのだ。
以下、やや長文になる古い語調の文章だが、蛇笏が最初の感興をどのように作品として完成させているのか、その<フェティッシュ>ぶりを覗いてみよう。

「推敲と実例」『句作の道 作法篇』(昭和25年8月目黒書店)より
(引用句のアルファベットa~eは、彌榮が付したものです)

秋の野径を逍遙して、よく曼珠沙華の燃えたつような花叢に出くわすことであるが、それを詠もうとした場合が、或る快晴の午後で、全く風も死ち、鏡のようにしずまりかえった草川の畔りに歩みをすすめていたことが思い出せる。曼珠沙華を中心景物として、この環境は私の心をまさしく寂然たらしめるものであった。
わたくしは早速、
草川のながれ寂たる曼珠沙華 ・・・a
という風に、いとも素直な写生風な表現をとってみた。一応はこれでも輪郭的描写が感じ得られた感じではあったが、「ながれ寂たる」は、忠実なる愚鈍とも云うべき表現で、いかにも知性的な働きがなさすぎる。それゆえに「寂たる」という措辞の露呈が精一杯の感じで、救わるべくもない甘さになるのである。併しながら私の心を捉えたのは、まさしく環境のこの雰囲気であった。斯の寂然たる中に、淡緑色の茎を林立せしめ、火焔のように咲き盛っている曼珠沙華であったに違いないのである。推敲はこの一点に集中したけれども、
草川の流るるとなく曼珠沙華 ・・・b
或は、
曼珠沙華草川寂とながれけり ・・・c
或は又、
草川に日当たる午後の曼珠沙華 ・・・d
としてみたが、寧ろ愈々拙くなるばかりである。この把握をば併し心にとどめて数日を経過し、結局推敲をかさねた果てに、
草川のそよりともせぬ曼珠沙華 ・・・e(掲句)
という至極淡々たる風貌のものに落着けたのであるが、万一にもこの作品に取得がありとすれば、淡々たる風貌が内的に深く蔵するところのものがあることであり、澄明なる裡に寂然たる心が潜められている点だと思えるのである。


蛇笏ほどの名人ならば一刀両断に名句を次々と生み出してきたはずだ、そんな印象を持ちがちだが、上記の文章を読むと、「ああ、僕(たち)とそう変わらないんだなあ」と安心する。というよりもむしろ、まず原案aを獲得したうえで、それをあれこれいじり、bでもない、cでもない・・・とあれこれ思い悩んだうえで、最終的にeに辿り着くことができて「よしっ!」と心の中でガッツポーズをする。その作品づくりの逍遙こそ、俳句づくりにおける<フェティッシュ>の醍醐味なのだ。
「推敲はこの一点に集中した」うえで、わずか十七音の、しかし、無限の可能性を持つ言葉の組み合わせを、あれこれ試すのだ。悩ましくも楽しい迷宮だ。

草川のながれ寂たる曼珠沙華 ・・・a
草川の流るるとなく曼珠沙華 ・・・b
曼珠沙華草川寂とながれけり ・・・c
どれも、悪くはないが、決め手に欠ける。説明的である。
bは「寂」を云わずに「~となく」という否定形による表現の停滞によって「寂」の気配が醸し出ることを期待したのだろう。しかし、期待通りには生動しない。そこで、cの「寂とながれけり」によって再びaに表現を寄せ戻しつつ「けり」の切れ字を試してみるのだが、残念ながら切れ味は鈍いまま、より一層説明臭が強くなってしまう。
そこで思いきって別の角度(あるある!)から攻めを試みるのだが、
草川に日当たる午後の曼珠沙華 ・・・d
と、「寧ろ愈々拙くなるばかりである」。
わはは。あるある!どんどんダメになっていく・・・ああ・・・。
で、そんな右往左往の中、ふと、
草川のそよりともせぬ曼珠沙華 ・・・e(掲句)
ができた。
「淡々たる風貌が内的に深く蔵するところのものがある」、そう、a~dに比べても説明臭さがまったく消え、「草川」の「寂」が、そして「曼珠沙華」の表情までもが生き生きとチャーミングに描出されている。「澄明なる裡に寂然たる心が潜められている」、そう、「そより」というひらがなのオノマトペが「~ともせぬ」の屈折と組み合わされることで、a~dにはない<透明な濁り>とでも称すべき気品が発生している。
この、a~dの停滞から、eの飛翔への到達は、(後付けの分析はできても)創作の際に計算できない。だからこそ愉しいのだ。

自分が受けた感覚の本質を消さないようにしながら、凡な・説明的描写ではなく、自らをはっとさせる表現に仕上げる。そうしたいくつもの次元の<フェティッシュ>の凝縮。
さらさらと湯水のように作品を生み出す、そうした俳句づくりのスタイルもありえよう、そうした瞬発力・軽やかさが、負担感のないエグみを感じさせない作品を生み出すこともあろう。
だが、僕はやはり蛇笏のように、生活の中でふと感じ取った<気配>を、あれこれといじり倒しながら、作品として彫琢し、「(ようやく)できた!」という、その<フェティッシュ>の迷宮を楽しみたい。それが、十七音という極短詩だからこそ味わえる、無二の醍醐味なのだから。

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