【句集を読む】
ふくらはぎ
柘植史子『雨の梯子』の一句
西原天気
ががんぼを見し夜の腓返りかな 柘植史子
ががんぼといえば肢が思い浮かぶ。そこから(作者の)ふくらはぎへの展開は、順当でムリがない。とはいえ、ががんぼと私(人間)は違うものだし、ひょっとしたら、まったく順当でもなく、ムリがないとは言えないのかもしれない。ただ、このときの感興とは、脚/肢を支点とした、ががんぼと私の互換性、別の角度からいえば、ががんぼと私の(非言語的)交信から来るものだ。
句集『雨の梯子』には、
薔薇守へ育つ百万本の棘 同
草いきれ壁にボールの跡積もり 同
といった的確な彩をまぶした句も多い(前者の「棘」、後者の「積もり」)。また、
液晶のページをめくる青葉の夜 同
エンドロール膝の外套照らし出す 同
といった鮮やかな映像(とりわけ光)を伝える句も、この作者の特徴(後者は角川俳句賞の連作タイトルになった句)。
こうしたなか、掲句は、彩を凝らしたわけでも、なにかをあざやかに映像化するわけでもない。或る夜の出来事をただ綴ったふうにも読めるこの句にとりわけ惹かれるのは、(前述を繰り返すことにはなるが)、ががんぼと私が、この句において、悦ばしく隣り合う、あるいは一体化する、その作用によってである。
ががんぼを見ると腓返りを起こすという迷信も呪術も存在しないのだろうけれど、その夜から、その呪術が始まるのかもしれない。
ふくらはぎ固く風鈴吊りにけり 同
この句は、ここで述べてきたこととは無関係だけれど、ちょっと引いておきたくなる。
なお、同句集について付け加えるに、
鶏頭の四五本とゐる雨宿り 同
百本もあれば鶏頭には見えず 同
の2句は、愉快な本歌取り。
かように作風は幅広く、全体に軽やか。言いぶりや措辞には抑制が効いている。
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