2018-09-02

【インタビュー】柳本々々さんへの2回目の10の質問

【インタビュー
柳本々さんへの2回目10質問


〔前置:西原天気〕
前回の「柳本々々さんへの10の質問」。〔Q10・ 好きな自然現象は?〕の回答に「二回目」とあったので、「柳本々々さんへの2回目の10の質問」を敢行いたしました(自然現象じゃないけど)。


Q1 明日、あなたは、柳人、俳人、歌人による合同句会/歌会に出席します。1句/1首を用意しなければなりません。川柳、俳句、短歌、どれを持っていきますか?

すごくこわがりなので、まず行けるかどうかが問題なんです、とっても。あと行けたとしてもよくとちゅうであきらめて帰ってしまうことがあるので、罪悪感を抱えながら帰っちゃうこともあるんです。ここまでくるときすごくきれいなおおきな公園があったな。あの公園をあかるいうちに通って帰っちゃおうかなって。だめなひとの本領を発揮することが多々あるんです。それが仕事でないかぎり。

でもこれはとっても大事なもんだいです。福田若之さんと話したこんなことをよく思い出すんです。飲み会のときにわたしの隣にいた福田さんが、句、っていうものがあるんじゃないかって話をしてたんですね。で、ああっ、ってわたしはそのときおもって。それはもう俳句とか川柳ってカテゴリーでかんがえない。句、ってカテゴリーでかんがえるんですね。

それはたとえば、夏目漱石は小説を書いたんじゃなくて、文、というものを書いたんだ、って考え方だとおもうんです。ちょっと小学生のころに帰るようなかんがえかたです。文をつくりましょう、文を書きなさい、といったような。あえてすこしおろかになる。カテゴリーにかんしておろかになる。夏目漱石は明治の時代にずっと文を書いていた。文を書くひとだった。文ってなんだろうってかんがえていた。そういうふうにかんがえる。この世界に小説や俳句や川柳という線引きがあることを忘れる。積極的健忘をする。

ときどきそういうかんがえをもつことがあるんです。わすれっぽくなりながら。文、というものを書く。句、というものを書く。ジャンルとかでもなくて。

わたしは短歌や川柳は感想を書くことからはじめたんですが、感想文って評でもないので、文、なんですよね。そんなふうに短詩を文を書くことから始めた。そのころ、あなたはよく感想文って書いてるけど、「感想」って書くのはやめたらどうですか、っていわれたりもしたんですが、やっぱりそれは、文、っていうものがあるんじゃないかとおもってたんです。

そういう線の引き方についてときどきかんがえることがあります。そうしてときどきやっぱり生きてると線の話をしてくれるひとがいるんです。線についての話を。わたしのもとにやってきて、線の話をして、またかえっていくひとたちが。線のサークルなんですよ。赤毛連盟みたいな。


Q2 きょう、朝起きてから2~3時間の行動をできるだけ詳しく(公表できる範囲で)教えてください。

いつも眼をあけたしゅんかん、すぐつぶるんですよね。もどろうとおもって。それはやっぱり、なんか、めをあけたしゅんかん、じぶんがやくにたたないかんじがして。それできた場所にかえろうとするんですが、でもかえれないこともわかる。だんだんむこうにかえることもあきらめていく。ふとんの切り岸みたいなとこで。

そうすると眼もあきらめていきますよね。じぶんをうらぎって、ひらいていく。だから、めをあけたりとじたりをくりかえして、このせかいにまいにちなじんでいく。きほんてきにじぶんはやくたたずなんだってまいあさおもうんです。でも眼はそれをうらぎっていく。わたしがわたしをうらぎってゆく。起きたい、と。


Q3 生まれ育った町は、どんなところですか?

西瓜がともかくたくさんあったんです。西瓜がごろごろ転がる畑が。だからブローティガンの『西瓜糖の日々』のような場所だったんです。そのころもちろんブローティガンの名前すら知らなかったけど、でも読んでいたんです、生活というかたちで。たえず海からの風が吹いていた。

ラブホテルが点在するような新潟のとっても西のほうだったんですが、待ち合わせ場所が、橋の上、とかそういうなんかどくとくのふんいきのある町なんです。橋の上、っていっただけで相手に通じるんです。月の下の橋の上で、とか。で、橋の上で待ってると、ものすごい漕ぎ方で女の子が自転車に乗ってこっちにむかってくる。あのこあんな漕ぎ方するこなんだってはじめてそのときわかって。胸をおさえました。


Q4 俳句に似ているものといえば?

むかし、西原天気さんにこの『週刊俳句』で俳句ってこわいものって答えたようにおもうんです。それから鴇田智哉さんの俳句をみたりしているうちに、俳句って、ゾンビに似てるなあ、とおもったんですよね。

俳句はちゃんと・よく見ることから始まりそうなのでまったく逆のことを言ってしまうようなきもするんですが。でもすごく逆説的なことをいうと、眼を殺す、眼をぼうっとさせる、眼をできるだけ死なせてゆく。そうするとふだんいきいきとみている風景じゃないものがでてくる。時間がとまったり、ものの異様なパースがみえたりする。

だから、俳句は死にちかいなあとおもったんですよね。死の練習というか。生きているのになんども小さく死の練習をすることにちかいんじゃないか。そう、おもうんです。毎日すこしずつしにながら。


Q5 1年前の過去に戻るか1年後の未来に行くかを選べるとしたら、どっち?

どっちもおなじだとおもうんです。どっちをえらんでも。というか今ここにいることはたえずその過去と未来の「どっちも」を選んでることだとおもうんですよ。

さいきんおもったのは、過去にどんなことをしても、未来がどんどん答え合わせをしてくれる、だから過去でも未来でもどっちでもよくて、大事なことは、どんなことをしてもつづけていくことなんだっておもったんですよね。小学生のころよく先生が目の前で赤えんぴつで採点してくれるの待ってましたよね。どきどきしながら。ちょっとそれに似てるんです。過去と未来が混ざったかんじ。注射の列でならんでまっている。名前がや行だからいちばんうしろのほうなんです。刺されているひとの腕と顔をちらちらうしろからみている。おしっこがまんしながら。過去と未来を混ざらせながら。

小説家のレイモンド・カーヴァーが表現のこつはただひとつ、なんとしても生き延びることだ、と言っていたんですが、それってたぶん過去に対して未来が答え合わせをしてくれるからなんだろうなあともおもうんです。でもそれは同時に過去が未来に対して答えるときでもあるとおもうんですよ。過去と未来のスープみたいにみえるんです、いまは、時間が。今、そうおもう。


Q6 どういうわけか「飼われる」ことになりました。誰に飼われるのがいいですか? a プーチン大統領 b 火星人 c 次にすれ違う女子高生

むかし、あなたは植物みたいに生きたらいいよ、って言われたことがあったんです。ぜんぶするから、って。そのとき、いっしゅん、わたしも魔がさしたというか、そうだね、それもいいね、っておもったんです。植物みたいにもう生きていこうかなあ、なにもかんがえずに、って。

でも、ふっと、いや、やっぱ、だめだ、植物みたいにして生きてくのはだめだ、ちょっと醜く、ときどきはふとって、ねこんで、でもバーベルとか持ち上げたり、度付き水中眼鏡をかけて泳いだりもして、まよったり、なやんだり、こまったり、無能だとおもいながら、くらくらしながらいきていこうとおもって。フルカラーで。

でもやっぱ植物みたいに生きたらよかったかなあといまもおもうことがあるんです。そんなこといってくれるなんて宇宙的だし(b 火星人)。

でもまだじぶんにはなんとなくもうすこし泥臭くやっていきたいというへんな汚い光があった。だから、飼われなかった。でもやっぱり植物みたいにいきるのもよかったよなあとおもったりすることなんかもときどきあるんです。めをつむってあたまあらってるときなんかに。


Q7 このところ句集の栞文や解説をよく書かれています。執筆の際に心がけていることは?

そのひとのまわりにたえず吹いてる風みたいなものがありますよね。なんかこんなかんじの風が吹いてるなあとか。で、そういうのをじぶんが感じ取ったらできるだけじぶんもその風のなかで、その風に吹かれながら、そのひとのことをかんがえようとします。

毎日そのひととそのひとの風とそのひとの風のなかにいるじぶんのことをかんがえます。肉を切り分けているときも、お風呂をあらっているときも、バスのいちばんまえの席に乗っているときもそのひとのことをかんがえる。愛とかではないんです。風なんです。


Q8 好きな乗りものを教えてください。

引っ越してからバスによく乗るようになったんです。それでバスのいちばん前の席が好きなんですね。それはなんでかというと、じぶんが中腰のまま都市空間のなかを高速で平行移動しているように感じられるからですね。それは前衛なんですよ。中腰の無能なわたしが都市を高速で平行移動してるのは。スケルトン・バスならそうなるんですから。中空を中腰の中肉のわたしが高速で。その高速移動だけは、プロモーションビデオ的なんですよ。降りるとまた泣きたいくらい、つまさきまで無能なわたしなんだけれど。


Q9 一日のうちいちばん好きな時間帯は?

むかし、学校がすごく恐怖になってしまったときがあって、それで学校にいくのがこわくてしかたなくて、でも学校に行く登校時間はのばせないので、だから、学校にいくまでの時間をじぶんで殖やそうとおもったんです。アキレスと亀の理論ですよね。たとえば夜中の三時におきれば、学校にいくまでまだ五時間も自由時間がある! よかった! 登校時間はずっと先だ! ってなる。亀はずーっとむこうのほうにいるんです。

そういうかたちでだんだん憑かれたようにノイローゼになっていって。理論は合ってるんですが、からだは追いついていかない。

でもそのころの自分はそうやって亀にたどりつけないアキレスを生きるしかなかったんです。で、その五時間も自分にとっては唯一平和な時間帯でずーっと映画をみてたんです。五時間あればまるまる2本も見られるんです。グレムリンをみたら、グレムリン2もみることができる。だから、その真夜中の停戦状態の五時間はじぶんを生かしてくれた時間です。今でも時間に頭があがりません。アキレスと亀にも。時間、ありがとう。アキレス、ありがとう。亀、ありがとう。


Q10 こんどゆっくりご飯でも食べましょう。どんな店がいいですか?

昔よくいくカフェがあったんです、公共の。よくそこでどっさりとした本を読んでいて。あのひとはすこしかわってるね、とおもわれたりもしていて(憶測)。

あるとき、そこでとつぜんバイトを募集していたんです。わたしははじめてそのときじんせいで運命をかんじたんです(感応)。ちょっと使い方としては安いかんじの運命だともおもったんですが、でも安っぽい運命もじぶんらしいなとおもえたし。それでものすごく緊張しながら申し込んだら、担当者がわたしの履歴書をみながら、あんた包丁もてんですか? って言ったんです(疑心)。あんた包丁じゃなくて本もってたほうがいいんじゃないですか? って。履歴書をゆびでたどりながら。そのときわたしは、じっさい、鞄に勇気のためにといって、ベケットの『ゴドーを待ちながら』をいれて面接にきてたんです、読みもせず、勇気だけのために、おまもりがわりとして(勇気)。包丁は鞄に入れてなかった。包丁にはあまり思い入れがなかった。そうしてわたしの安っぽい運命は、なにを手に持ってたほうがいいかのおすすめをされて終わったんです。あたまをさげて(終了)。

それで数年後に春に、春陽堂とのうちあわせの帰りに、イラストレーターの安福さんとそのカフェにいってみたんです(案内)。ここがね、バイトに落ちたところなんですよ、って。それでふたりでとくに話すこともなくアイスコーヒーを飲んでいた。わたしは眼鏡をしていなかったせいか、どうしてもストローがくわえられず、あたまをあっちこっちに動かしていたんです。のび太のように眼が3のまま。安福さんに、だいじょうぶですか、と言われて。いろんなことが。あたま、だいじょうぶですか、とか(不審)。でも、ここ、まではこられた。ここ、まではこられたんだから、よかった、だいじょうぶです、っていったんです(応答)。ここにいます。だいじょうぶです、と。またちゃんとちがうかたちでここにかえってきたんですよ(帰郷)。

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