【週俳8月の俳句を読む】
世界の見通し
西川火尖
昔、俳句は極楽の文学だと高浜虚子は言ったが、それにしても最近は現実社会の問題が重すぎて、俳句に極楽の癒しを求めれば癒されっぱなし、呆けっぱなしになるより他にないような気がして、果たして現実を無視してそれに耐えられるだろうかと少し及び腰になっていた。しかし鑑賞を書き進め、俳句を解き明かそうとするうちに、固まっていた気分が解れていくのを感じた。単純に癒されたわけではなく、俳句に深く触れることは、そういえば世界の見通しを変化させるのだった。久しぶりにそういう実感を得ることができて、心が息を吹き返したのだ。
いいねするたびにくらげのうまれけり 森尾ようこ
「くらげ」の中ではこの句に注目した。いいね!のたびにクラゲが気泡のように量産され、空間上をただただ無目的に漂う。その虚脱的な映像に自然と私は納得してしまっており、それがなぜか少し考えた。おそらく、句の意味内容だけによって引き起こされたものではないだろう。とすれば、表記や韻律に秘密が隠されている可能性が高く、そこで思い至ったのが、SNSなどで使われる「いいね!」の「!」を省くことで「いいね!」のなだらかな抽象化が起きており、元々のSNSの輪郭をぼかしているのではないだろうか。そして平仮名書きによって、そのぼかしは視覚的に全体に溶け込み、元の「いいね!」を意識させつつも、くらげがウェブ上の平板な比喩に留まらないようにしている。抽象化によって生まれた奥行きや揺らぎの海にくらげが漂い、この想像上の映像にリアリティを与えているのではないだろうか。それにしても、ウェブと親和性の高い海的な背景イメージが、「いいね!」をぼかしつつも解体しきることなく、くらげを生み出し続けているというのは非常に面白いバランスで、このクラゲが溶けていつか海になるなら、生命循環的ですらあると思った。
塀一面弾痕血痕灼けてをり 堀田季何
「ニンゲンけダモノ」の冒頭の一句。堀一面に残った弾痕や血痕はその暴力が一方的な蹂躙であったことを示しており、また一方的に灼かれていることで、その状況が荒廃から好転することなくそこに留まり続けていることを表している。先に取り上げた「くらげ」の句から一転し、今度は一切抽象化することなく、定点カメラ的にありのままの映像を読者に提示している。そこには人間であるために人間のどのような行いからも絶対に目をそらさない、そらさせないという作者自身の強い姿勢を感じる。今尚、政治的、社会的なテーマを扱った句に対して、「俳句では何も言えない、言うべきではない」という俳句観を、俳句の批判性、批判能力を否定するために適用する意見は根強いが、批判とは何も声高に主張することだけではない。このような句がある以上、俳句の沈黙を理由に批判性を排除することは、俳句を過少に評価していると言わざるをえないだろう。俳句はその沈黙をして読者自身に判断を迫っているのであり、この句は俳句による批判性の在り方の一つを示していると言えるだろう。
裏切の水鉄砲を受けて立つ 同
「ニンゲンけダモノ」の二句目、タイトルの仕組みが示す通り、一句目の人間の暴力性、獣性を提示する句のあとに、「ニンゲンダモノ」と翻して、銃は銃でも水鉄砲による遊びとして、「受けて立つ」と余裕たっぷりにおどけて書く。そのため「裏切」と言いつつもそこに深刻さはなく、却って水飛沫の明るさを感じるのだが、それが、前の句の弾痕血痕の現実と同時に存在するという表裏の関係にして振れ幅のあまりの大きさに眩暈を覚える。しかしこの振れ幅を全て俳句の対象とするのが、この句群「ニンゲンけダモノ」であり、堀田季何が身じろぎもせず直視している人間の業ではないかと思う。
少し、重い雰囲気にし過ぎてしまったかもしれない。次は気分を変えて、
夕立に消えるファルセットの校歌 池田奈加
「少年」10句より、私自身は校歌にはさほど思い入れはないが、きれいな句だと思う。裏声がすうーっと夕立の中に吸い込まれてゆき、夕立が去った後の突き抜けた空の深さを思わせるような歌声なのだろうと分かる。こういった経験は私の中には存在こそしていないが、それでも強い郷愁を不思議とかきたてられる。このような「存在しない体験を記憶のように思い起こさせる」という、ある種の俳句が持つ特徴として、いずれ文章を書こうと暖めていたことを思い出した。そういえば、この句の前が
秋晴やフルスイングの四番打者
なので、もしかしたら野球の試合、時期的には甲子園での校歌の斉唱かもしれない。そうなるとますます未体験の句だが、どうしようもなく沁みるように懐かしい。
ふらここの軋みてここは石の街 浜松鯊月
石と言えばもちろん色々な色形があり、宝石から瓦礫まで様々な種類があるが、石の街とはそういった多様なものではなく、何となく切りそろえられた直線の無彩色な街を思い浮かべた。ふらここ、つまり、ぶらんこは春の季語で駘蕩な雰囲気も寂しげな雰囲気も持つが、この場合は後者で、ソリッドな石の街にぴったりの孤独をはらんでいる。しかし、この句は季語と措辞が合うというだけの句ではない。「ここは石の街」の「ここは」に、この直線の街をともかく受け入れる宣言のような響きが感じられ、ぶらんこも軋むという動きが何かの始まりを予感させているからだ。
実際、この句から始まる「君の背に」は、
糊残るワンピース着て山笑ふ
花冷えや道着の帯を締め直し
君の背にピントの合わず狐花
など、主人公の行くところ、触れるもの、触れられぬものが柔らかな色彩を帯びていくような印象があり、石の街に色を与えていく物語として楽しむことができた。
2018-09-23
【週俳8月の俳句を読む】世界の見通し 西川火尖
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1 comments:
本文中、堀田季何さんのお名前を誤って記載しておりました。
誤:幾何
正:季何
お詫びし、修正致します。
2018/09/23 08:47修正依頼
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