2007-06-17

遙かなり「第二芸術」 田沼文雄

〔復刻転載〕
遙かなり「第二芸術」  ……田沼文雄

初出 「麦」1972年6月号
〔編集部〕本記事が書かれてから35年、桑原武夫「第二芸術論」発表から61年が経過している。為念。

「第二芸術」が書かれて、すでに四分の一世紀たった。戦争直後の混乱期に書かれたエッセイのなかで、これほど輿論をゆさぶったエッセイは、ほかにはなかったのではないかと思うが、当時を回想すれば、現在の俳句界の太平ぶりは、まったく夢のようである。

私自身、いまでも記憶にのこる当時の名エッセイをあげろと言われれば、即座にこの桑原武夫氏の「第二芸術」と、坂口安吾の「堕落論」をあげたい。「堕落論」は昭和二十一年の「新潮」五月号に掲載され、昭和二十四年銀座出版社から単行本になった。「第二芸術」も同じく昭和二十一年の「世界」十一月号に掲載され、翌二十二年、白日書院から出版された、「現代日本文化の反省」と題する単行本のなかに収められた。

敗戦まで、軍国主義一辺倒ともいえる教育に馴らされてきた、二十代初めの私にとっては、戦後、つぎつぎに発刊された出版物は、すべてみな新鮮そのものだった。昭和二十一年だけに限って言ってみても、たとえば埴谷雄高の「死霊」、梅崎春生の「桜島」、石川淳の「焼跡のイエス」、坂口安吾の「白痴」、または花田清輝の「復興期の精神」、織田作之助の「二流文学論」、そしてサルトルの「水いらず」など、後世まで世評に高い作品がむさぼり読めたのだ。

そうしたなかにこの二作品もあった。「堕落論」について言えば、あの卓抜なモラリスト安吾の、いわば生身の声を聞く思いがした。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見することだ」という「堕落論」の一節には、戦後精神のありかたをはっきり教えられた。後日、「人間」の編集長だった木村徳三さんに、「私の文学開眼は『堕落論』です」というようなことを言って「君、それじゃ、東京へ出てこなくちゃだめだよ」と言われたのを、いまでも妙になまなましく覚えている。なぜ、木村さんがそう言ったのか、いつの頃か、場所がどこであったか、それはもう忘れてしまったが、木村さんのその言葉も、いつまでも私の耳にひびくのである。

当時、ようやく俳句になじみ始めたばかりの私には、「第二芸術」は、ある意味では「堕落論」以上に衝撃的だった。いまでもあの八ポ三段組みの「世界」の誌面が目に浮かぶ思いがする。それ以後、私は車中など人眼にふれるところで、俳句を読むことなど、恥ずかしくて到底できなくなっていた。それほど強いインフェリオリティ・コンプレックスを植えつけられたのである。

当時、私と同じ世代で俳句に手を染めていたひとたちは、多かれ少なかれ、この「第二芸術」を身を持って受けとめたのではないだろうか。かつての私たち「麦」の仲間でも、「俳句から離れるか、俳句に拠るべきか逡巡し、模索しながら」と言った後藤守氏や、「俳句の本質に係わる疑惑と不満に終始する」と言った平山秀郎氏などいずれも同世代であり、そして俳句から離れていった。あくまでも推測ではあるが、これらの諸氏も「第二芸術」の照射を真向うから受けとめたのではないだろうか。

その「第二芸術」であるが、このなかでもっとも人気(?)をよんだのは、大家、無名のひとびとの句をとりまぜ、無署名の十五句を並べ、有名無名の判別をつけてみよというものである。しかし、この論文では、これはあくまで自説の枕であって、桑原氏の本当に言いたかったことは、「芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難である。そこで芸術家の地位は芸術以外のところにおいて、つまり作者の俗世界における地位のごときものによって決められる」という現象によって起こる党派性を衝き、そういう封建的な人間関係のなかから、本当の芸術運動は起こらないということであり、そういう消閑の具にひとしい俳句は、第二芸術とよんで、他の芸術と区別したほうがよかろうというものである。

この書き方は、たしかにセンセーショナルであったし、後年、氏をして、「若さのせいでまずいところがあった」(『思いだすこと忘れえぬ人』昭和四十六年刊)と言わしめているが、臼井吉見氏に言わせれば、「真打ちの呼吸を心得ているだけあって、ねらいと効果に対する計算にぬかりがなかった」から大変だった。

当時、俳壇情勢などというものも皆目わからなかった私にも、俳壇のとげとげしい空気がどこからとなく伝わってきて、これは大変なことになるぞと思えた。さまざまな議論がとびかい、さまざまな反駁が話題になったことは、いまからすると想像もつかないほどだ。中村草田男氏は、その説教調は「理由なき優越感」からくるもので、これを「教授病」と命名すると言い、山口誓子氏は「作品に失望するとしても、大家に失望しない。またよしんば大家に失望するとしても俳句そのものに失望しない」と叫んだ。

そして、その反論を総括して言えば、東京三(秋元不死男)氏の、「俳句は一句一句と、真剣に積みかさねて行って、大きく勝負を決する詩である。誇張じみて言えば俳句は境涯の文学である」や、加藤楸邨氏の、「俳句を通して人間の要請――生き、求め、前進してやまぬ人間の要請を生かす場としての俳句」といったような、一種の決意論に終始していたように思う。だから毎日新聞に発表した誓子氏の「往復書簡」に答えた、「山口誓子氏に」のなかで、桑原氏は、「山口氏ほどの人がつまらぬと折紙をつけたものを、諸大家が平気で発表し、これを綜合雑誌が平気でのせている、というところに、このジャンルの弱味がはっきり出ている。そして氏は『作品に失望しても大家に失望せぬ』といわれるが、作品をはなれた芸術家とは何だろう。私は、氏が現代俳壇の封建性についての私の指摘を不問にふせられたことを意味ふかくとる」と述べることになるのだ。

では、あれほど騒がれた「第二芸術」によって、俳句がどれほどの変りようを示したであろうか。私も自身が実作家であるから、客観的な物差の持ちようもないが、俳壇というひとつの縮図をみれば、桑原氏の指摘した封建的性格は相変らずうけつがれ、ますます深められようとしているかにも思える。皮肉な見方をすれば、あのような外部からの痛撃によって、いっそう自分の殻にこもる封建的性格を強めていったとも言える。

例をあげれば、俳人協会や現代俳句協会のような結社の枠をこえた団体のなかでも、さまざまなスキャンダラスな話もあるようで、私のようなものにまで酒のみばなしにささやかれるのである。実をいえば、俳壇にかぎらず学問の世界にも学閥があり、比較的、開放的だといわれる文壇にさえ、ある種の上下のコネクションがなくもない。大学教師の集まりなどに行けば、どこでもその小姑的な会話にはこと欠かない。日本の社会そのものが、そういう「タテ社会の人間関係」にすっぽりはまっているからだ。

しかし、個としての学問なり芸術なりに、その重みがあれば、おのずと世間の目で判別されていくわけで、不幸にして俳句にはそういう個としての爆発力はない。このことが俳句を党派的な世界に押しやるのであろうが、「第二芸術」が発表された翌年の小田切秀雄氏のサジェスチョン、「わたしは俳句に興味をもっているすべてのひとびとが結社から脱退することをおすすめしたい。そして純同人雑誌風な行き方で新規まき直しに歩きだすのがいいと思う。それがどうなるか具体的なことはわからぬが、俳句は、こんにちの結社の神々によって指導され、組織され、俳句を第一芸術なりと思いこむような方向への煽動宣伝が易々として行われている限り、いつまでも文字通りの第二芸術にとどまるほかないだろう」という言葉に、どれだけの俳人が耳を傾けたろうか。当時、そうした方向からの俳句改革に多くのひとたちが目覚めていたら、あるいは、予想もつかないような新風が起っていたかもしれない。

事実、二十年代から三十年代にかけて、関西方面でのいくつかの小グループの同人雑誌の仕事などは、それぞれ評価されてもよいだろうが、いまではそれぞれぬくぬくとした結社の主宰におさまったり、太平の現俳壇の空気にすっかりなじんでしまっているようだ。こうした現状が俳句にどんな運命をもたらすか、私にはわからない。しかし、いまや古典と化したかと思われるこの「第二芸術」が、もう一度、再読されてもよい時期にきているような気がするのは、私だけの回顧趣味であろうか。



田沼文雄 (1923-2006) 群馬県に生まれる。1947年、「麦」入会。1989年より2004年まで「麦の会」会長を務める。句集に『田沼文雄句集』『菫色(きんしょく)』『即自』など。

※「遙かなり『第二芸術』」は関係各位の許諾を得て転載させていただきました。

1 comments:

民也 さんのコメント...

はじめて投稿します。民也といいます。
桑原武夫の「第二芸術論」そのものについてはまだ全文を読んだことがないので、論そのものについては是も非も言えませんが、この記事に含まれている部分について少々コメントを述べます。

結論 少年リーグがなければ、「イチロー」も「ゴジラ」も居なかった。

理由 大リーガーは少年の頃から野球をしていました。少年リーグがなければ、大リーガーの資質は野に埋もれたままであったでしょう。少年リーグは、野球人口の底辺を支える重要な裾野になっています。

推論 俳句結社は少年リーグと同じ役目を負っていると考えられます。俳句人口の底辺を支える重要な役目を担っています。従って、
結社は是か非か、と言えば、是という立場からそのあり方を議論するのが現実的です。

結社が、あるいは俳壇の権威が、俳句の芸術性を貶めている、というのはまったくの駄論だと思います。具体的な根拠がぜんぜんない話です。

大体、大リーガーになるつもりで日々練習している選手が、監督や高野連、プロ野球のオーナーに権威を感じていると、思いますか?

俳人も同じです。俳句協会だの、結社の主宰などに権威を感じる人は、結局それまでの人、ということです。そんな人は、せいぜい現状の不平不満でも言いながら、小さくまとまっていればいいです。

権威が悪いのではなく、既存の権威を超えられないほうが、悪い、ということです。