2007-07-15

歩く速度、生きる速度 小野裕三

俳句ツーリズム 第6回

再び北京篇 

歩く速度、生きる速度
 ……小野裕三


最近また機会があって北京を訪れた。そこで、それも踏まえてこれまでの北京訪問を雑感的に記してみたい。例えば北京でよく見かけるものを挙げてみた。

その一。洗濯物。面白い写真をいくつかピックアップしてみた。本当に街中のあちらこちらに洗濯物が干してある。数が多いというだけではない。公道に面したところとか(写真1)、あるいは本当に道の歩道の上とか(写真2)、駐車場の上とか、観光地の寺の境内とか(写真3)、公的な建物の玄関脇とか(写真4)、とにかくどこにでも洗濯物はある。

その二。箒もしくはモップ。よく街を見ていると、じつはあちらこちらに箒やモップがある。家の軒下とかならまだしも、店先(写真5)、場合によってはやはり観光地の寺の境内にも堂々と箒がある。木の股をフック代わりにしてモップを吊るしていたりするが、ここまでくるとなかなか堂に入っている(写真6)。

その三。信号無視。信号無視というか、要するに赤信号の横断歩道をぞろぞろと列になって渡っていく人々(写真7、よく見えないかも知れないが歩行者用信号ははっきりと赤である)。赤信号みんなで渡れば怖くない、というギャグが日本でも昔あったけれども、まさしくそれが現実に目の前で起こっているのはいささか圧巻でもある。一人や二人の信号無視ではなく、全員でじりじりじりじりと赤信号の中を進んでいくのだからすごい。

この点についてはさすがに気になったので中国の人に尋ねてみると、信号は何にも当てにならないので「信号ではなく人を見て渡ってください」との回答だった。実際、青信号だと思って安心して渡っていると平気で車が突っ込んでくることがあるので油断はできない。青信号でも必ずしも安全とは限らないし、逆に言えば赤信号でも必ずしも危険とも限らない。要は、制度を信頼しきることなく周りの人を見て臨機応変に行動せよ、ということか。どこか処世訓めいていてすらもいる。

その四。道端に座っている人。これもあちらこちらで見かける。公園や道端のちょっとした石段に座っている姿もよく見かけるが、公道の木陰などに椅子を持ち出して座っている人も多い。いろいろ雑談をしたり、時にトランプなどで遊んでいたりもする。もちろん、ただぼんやり座っているだけという人もいる。

その五。物乞い。インドでは町中にバクシーシと呟きながら接近してくる人が大勢いるが、中国にも結構存在している。地下鉄の車内を歩いてくる(あるいは這ってくる)物乞いの人々。果敢な者は、お尻とお金を入れる容器をずるずると引きずりながら満員電車の中を突き進み物乞いを続ける。

以前、胸に「抗日」「八路軍」といった文字を記した紙をぶら下げた老人がやってきてじっと目の前に立ったので、さすがにそのときはいささかばかりの献金をした。観光地の寺院などの出入口にも物乞いの人々が集まっていて、観光客と見ると目敏く接近してくる。たまに親子でアタックしてくる果敢な家族もいる。いずれにせよ、こういう物乞いの人々への対応にはいささか当惑する。当惑するというのは、困窮している人であれば多少でも助けてあげたいのはヤマヤマなのだが、(これは万国共通で)時にやや厚かましいのではと感じられる場合もある。

また特に子供の物乞いなどの場合は、無闇にお金を与え過ぎるのも教育上よくないということも指摘されたことがある。と言いつつ、完全に無視してしまうとそれはそれで後になって一抹の後悔が残るケースも多い。そういったことが、いちいち当惑せざるをえない理由なのだ。

今回の訪問では、道端でお尻を引きずりながら物乞いをしている男がいたので、「これはやはり…」と献金をしようと思った。財布から五元札を取り出したのだが、缶の中にあるのは一元札やその下のコインばかり。「ちょっと多かったか?」と思ったが、まあそれはそれ、とそのまま五元札を上げる。そのあと、三十分くらいして同じ道を通るとまだその男はいた。僕を見つけると満面の笑みを浮かべてお尻を引きずりながら手を振った。あるいは五元札を貰ったのがそれほど嬉しかったのかとも思いつつ、僕もぎこちない笑顔で会釈を返すのであった。

と、いろいろ北京で目につくものを挙げてみたが、こうやって見るとよくも悪くも大陸的な大らかさだなあ、と思う。中国の人はよく言えば大らか、少し悪く言えば大雑把、そんなところは確かにあるようだ。

                  ★

ところで、どこの街に行っても地図を持って歩き回るのが僕は好きだ。歩けない場合は、バスか地下鉄。まずは極力歩くことを優先する。というのも、歩き回ることで見えてくる何かがあるように思うから。他の都市と同様に、北京も観光客向けの大型バスがよく走っている。白人の観光客などをぎっしり詰めたバスが、有名な観光地の前に横づけする。ホテルからやってきて、観光地を見、そしてまた次の観光地へと向かい、そしてどこかで食事を取り、やがてホテルに戻る。ホテルと観光地を線で結ぶやり方。なるほど、時間がない場合の観光方法としては確かに合理的だ。観光地ではガイドが縷々解説をしてくれるから、歴史的背景なども充分に理解できる。情報量的には確かに充実している。そして、そういったやり方を否定するつもりもない。だが当然ながら、街とは観光地だけで成り立つものでもあるまい。それもまた、一面の真理ではなかろうか。

ただひたすら歩くこと。そうすると、その街のいろんなものが見えてくる気がする。やはりこの「歩く速度」というのが結構大切だ。歩く速度で見る街と、観光バスやタクシーの速度で見る街の印象は大きく違う。例えば上記に掲げたような北京で目についたものも、車の中からだったらよく見えなかったかも知れない。間違いなく、歩く速度から見えてくる発見がある。あるいは、歩くだけでなくとも地下鉄や市内バスも含めて街の人たちと一緒に動いてみることによって見えてくる発見がある。たぶん、そういった速度が一番人間の「生きる速度」に近いからだろう。

そして、このささやかな僕の「歩く」主義はどこか吟行の精神に似ているような気もする。いくら交通機関が発達しても、いまだに吟行は「歩く」ことを主眼にしている。「歩く」速度こそが「発見」にもっとも適している。そのような、「生きる」ことのもっともベーシックな速度に戻ることで見えてくる何かがある、と僕は固く信じている。そんなわけで、とにかく新しい街に行くと地図を片手にひたすら歩く。

  前門の虎の大きな熱帯夜

この句も以前に北京で作ったものだが、この句には夜の北京の街を歩くという行為が密接に絡み合っているように自分では感じている。もちろん、レトリック的には「前門の虎、後門の狼」という諺を下敷にしたものではあるが、実は北京には「前門」という地名もある。天安門の南、まさに前門としてそれは存在している。北京の夜、北京の夏、あの暑い闇。町中のあちこちにイルミネーションがあって、きらきらと輝いている。なにか圧し掛かってくるような人と街と、その空気の存在感。夜の北京の街自体が、どこか生き物めいた雰囲気を感じさせるところがある。

                  ★

ところで、前回の時に紹介した出入国管理官を採点するための器械だが、相変わらずフル稼働していた。僕が当たった管理官は顔中に満面の笑みを浮かべて身振り手振りで誰にでも親密さをアピールしてくる。僕がパスポートを差し出すと、わざわざ「オ・ノ・サン?」などと「サン」付けで呼びかけてくるので驚く。いまだかつて、どこの国に行っても出入国管理官に「サン」付けで(しかも満面の笑顔で)呼びかけられたことはない。きっと日本人なら「サン」を付ければよいということはどこかで勉強したのだろうが、それにしても管理官の涙ぐましい努力ではある。

そしてその満面の笑みに見送られつつ、再び北京を後にした。



写真撮影:小野裕三

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