岡田由季 仮眠室
お雑煮のまるき具のみな浮きたがる
手に薄くクリームのばし初仕事
閂をはづして入る芽吹山
飛び石のひとつぐらつく春浅し
唇のほんのり開く雛かな
春昼や大樹裾より石となる
山羊が目を細めてゐたる霾ぐもり
鯉の上に鯉の出たがる花の昼
飽きられて風船ほつとしてゐたる
ガーベラを一輪挿して仮眠室
春眠し車窓に城のおほきかり
向うからも覗く人ゐて花御堂
ジュラルミンケースのをとこ花水木
緋の躑躅休暇じりじり減りゆけり
糸蜻蛉出てきし立体駐車場
遊園地内大通り夏立ちぬ
はつなつの板滑りゆくオットセイ
いちにちを小声で過ごし卯波立つ
息継ぎの顔すべすべと平泳ぎ
ががんぼに空気の重たすぎるなり
祭の夜ひんやりとある地下のバー
マラカスをばつてんに置き明易し
ふんころがしの点で支へてゐる地平
道幅に広がり帰る花火の夜
帰省してきらびやかなる箸使ふ
時計台内部へ夏の月あかり
秋の海ゆつくり動くものばかり
木登りの限界に来て秋気澄む
落し水痒きところに触れてゆく
月白の大樹の洞を覗きけり
秋水にやんごとなき手映りたる
虫の鳴く柱に添ひて人を待つ
前触れの雨粒ひとつ獺祭忌
星明り団地の壁の匂ひあり
風吹けば尻の浮きたる青ふくべ
歪みつつテレビの消ゆる夜寒かな
くちなはの影引き連れて穴に入る
日の溜る時代祭の仕度部屋
はつふゆの分銅つまむピンセット
投函をしに来たやうな冬の海
テーブルに直にパン置く日短か
寝台車毛布の少し毛羽立ちぬ
雪原をぽたぽた歩く子役かな
ロマンチストかたちのままに煮る蕪
働かぬ日の寒潮を見てゐたり
冬薔薇花瓶の水をどつと吸ふ
院長の私服のコート横切りぬ
柱時計に羊隠るる聖夜かな
ひと笑ひして雪吊りに雪無き日
柊を挿し湖の街猫の街
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2007-10-28
岡田由季 仮眠室
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8 comments:
ががんぼに空気の重たすぎるなり
なんとなくよろしそうだけど、「すぎる」・・・言いすぎかも。
秋水にやんごとなき手映りたる
水→映るはやや陳腐な展開。上五中七の抜群の措辞をもっと活かせるものがありそう。
くちなはの影引き連れて穴に入る
上手。だけどありそう。
雪原をぽたぽた歩く子役かな
「役」要らなかったナァ。子どもじゃ駄目?
以上は好き句だけどちょいと苦言もあり。
以下は諸手を挙げての好き句。
はつふゆの分銅つまむピンセット
いい郷愁。胸キュンした。
寝台車毛布の少し毛羽立ちぬ
妙なリアリティ。好き句。
息継ぎの顔すべすべと平泳ぎ
出色と思う。スーパースローで映し出される映像のよう。
全体を読んでみて、いいところまで攻め込むんだけど最後の一本が出ない・・・そんな感慨。もうすこし破綻した句を混ぜると、アクセントになるのになぁなどとも。
妄言多謝。
小川軽舟
露草や分銅つまむピンセット
匿名さま
小川軽舟さんのその句は勉強不足で知りませんでした。中七下五まったく同じですね。教えていただきありがとうございました。
あまりにもよく引用される文献ではありますが、『ネズミの時間、ゾウの時間』というベストセラーがあります。心臓の鼓動の違い、平均寿命の違いなどから生物によって感じられる時間というものは異なるとのことです。これは動物単位で違うことを言っておりますが、人間にも時間の早さには個体差があるように思います。
昨年9月地元へと都落ちして、土地の時間というものを強く感じました。私の地元である一地方都市と大都市東京とでは明らかに流れている時間の早さが違います。言うまでもなく東京の方が早いです。それも極端に早いのです。
先日、東京出身の友人と広島に旅行に行った際、友人は「なんでこんなにみんな歩くのが遅いの」と言っていました。東京の感覚から地元の感覚に戻っていた私にはそれはごく一般的な歩く速度に感じられました。確かに東京の人々は歩くのが早いです。
何かに追われているかのように突き進みます。地元の人々はまるで時間に置いていかれているかのごとくゆっくりと歩きます。トラクターが都心の道を走ることはできないでしょう。やはりあの速度は田舎道だからこそ可能なものです。
前置きが長くなりました。この作者の方には独特の時間の流れを感じます。
唇のほんのり開く雛かな
ジュラルミンケースのをとこ花水木
はつなつの板滑りゆくオットセイ
息継ぎの顔すべすべと平泳ぎ
ががんぼに空気の重たすぎるなり
祭の夜ひんやりとある地下のバー
秋の海ゆつくり動くものばかり
前触れの雨粒ひとつ獺祭忌
歪みつつテレビの消ゆる夜寒かな
くちなはの影引き連れて穴に入る
寝台車毛布の少し毛羽立ちぬ
柱時計に羊隠るる聖夜かな
雛の唇を見ている間、ジュラルミンケースの男を見つめている間、オットセイを見ている間、地下のバーなど詠みこまれている時間は作者独特の時間を感じます。それはちょっとスローモーなものです。
作者の方がどちらにご在住かは存じませんが、東京とも私の地元とも違う時間の流れを感じます。それは読者をとても心地よくしてくださるような時間の流れです。
「ゆつくり動くもの」には客体としての対象ではなく、作者の方自身とシンクロしていく主体・客体の坩堝を思わせます。
長々と書いてすみません。要は「この時間の流れ、気持ちいいなあ」と温泉につかっているような気分になりました次第です。
発句 日の溜る時代祭りの支度部屋 岡田由季
付句 ごろごろさなぎはれ疑わず 民也
…俳句の心は歌心。
好きな句
閂をはづして入る芽吹山
閂に焦点を当てたことで、春の山の鼓動を表わすことに成功していると思います。
鯉の上に鯉の出たがる花の昼
春爛漫の光の乱反射。贅沢な気分にさせてくれる一句です。
はつふゆの分銅つまむピンセット
類句ありとのことですが、これはこれで好きでした。感覚の冴えを感じました。
「やんごとなき手」から「ふんころがし」まで、全体的に、常識の範囲内での詩作と感じました。尖った表現もない代わりに、これという決め手にも欠けるような・・。後、一句の中で、口語か文語か統一した方が良いのでは。かく言う私も大きなことは言えませんが。いろいろ書いてしまいすみませんでした。
向うからも覗く人ゐて花御堂
いちにちを小声で過ごし卯波立つ
道幅に広がり帰る花火の夜
雪原をぽたぽた歩く子役かな
ひと笑ひして雪吊りに雪無き日
あたりが好きでした。テレビの句は、「つつ」と言うほどゆったりした時間が流れているとは思えないので、
(五文字)テレビは消ゆるとき歪む
の方がいいのかなあ、とか思ったり。すみません、生意気で。。
言葉が言葉だけで浮いてしまっている感じがするものもあります(「帰省して」の句など)が、綺麗な世界に一見まぎれそうになっている一筋の不思議さに大いに惹かれました。
岡田由季様
鮟鱇です。玉作、二度拝読しました。
最初は石原ユキオさんの句を読んだ直後、二度目は、今日。岡田さんと石原さんは句を作る姿勢が百八十度違うように思えます。時間をおいて、頭を切り替える必要がありました。
石原さんは句を「作る」が、岡田さんは句に「成ってしまう」、そう思えます。お二人の作を並べて鑑賞させていただけるのも、週間俳句の好企画のおかげです。感謝します。
これは、どちらがよいかという問題ではありません。ただ、作り手に資質の違いがあり読み手に好みの違いがあるということでしょう。
しかし、見たものがすぐ句になってしまう、ということにはスキがありますね。
はつふゆの分銅つまむピンセット
には、類句の指摘がありました。分銅をピンセットでつまむという仕事が、岡田さんの生活に実際にあった、そして、句になってしまった、ということなのでしょう。
句を「作る」場合には、類句は避けるべきでしょうけれど、身辺の生活が「句に成ってしまう」場合は、類句を避けることがけっこう難しいのでは、と思えてしまいます。そこで、類句を詮議すべき場合とそうではない場合が、あってもよさそうに思います。
さて、句に成ってしまう場合にも、二つのケースがあるようですね。
お雑煮のまるき具のみな浮きたがる
唇のほんのり開く雛かな
糸蜻蛉出てきし立体駐車場
飽きられて風船ほつとしてゐたる
ががんぼに空気の重たすぎるなり
ふんころがしの点で支へてゐる地平
はつなつの板滑りゆくオットセイ
冬薔薇花瓶の水をどつと吸ふ
これらの句は、作者は観察者で、読者には作者の姿が見えません。ただ、その観察は、作者の心優しい情感が出てていい。
句がよいというよりは、作者の人柄がいい、というべきでしょうか。
投函をしに来たやうな冬の海
手に薄くクリームのばし初仕事
飛び石のひとつぐらつく春浅し
ガーベラを一輪挿して仮眠室
遊園地内大通り夏立ちぬ
息継ぎの顔すべすべと平泳ぎ
祭の夜ひんやりとある地下のバー
帰省してきらびやかなる箸使ふ
働かぬ日の寒潮を見てゐたり
これらの句は、作者の姿が見える句作りですね。つまりは、抒情の作でしょうか。
しかし、そういう抒情がいたづらに写生に流れると、意味がわからない作になります。
院長の私服のコート横切りぬ
わたしは情緒音痴です。そこで、岡田さんにとっていい読者ではないのかも知れませんが、生活や仕事に誠実に向きあうことの中で作句に励んでいらっしゃる姿が思い浮かび、心を洗われます。
漢俳・讀岡田由紀女士之玉句有感作一首致謝
思郷又送年。人欲投函無嘱言,但看海濤玄。 (中華新韻八寒の押韻)
郷(くに)を思いて又 年を送る。
人 投函せんと欲して嘱言(ことづて)無く,
但だ看ん 海涛の玄(くろ)きを。
原玉:投函をしに来たやうな冬の海
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