2007-10-14

少女としての辻桃子  第一句集『桃』を読む  松本てふこ

少女としての辻桃子 第一句集『桃』を読む ……松本てふこ
初出 : 俳誌『童子』2004年11月号


わたしは 自分を
とじこめて
しまわなければ
いますぐ
しなければ
じゃないと
わたしは人に
危害を加えるの

  (大島弓子『バナナブレッドのプディング』白泉社文庫より)

辻桃子の第一句集『桃』(1984)を読んだ時、最も印象に残ったのは句集全体に流れる情緒不安定さだった。生まれて初めて、句集を読んで心がざわついた。

この句集の一句目は、

  葉 生 姜 や ゆ め も の が た り 終 り た る

と、実にまっすぐに夢への決別を詠っているはずなのに、句集を読みすすめていけばいくほど、夢の中にひきずりこまれていくような不思議な世界観にずぶずぶとはまりこんでいったからだ。

夢というと、私は大好きな少女マンガ『バナナブレッドのプディング』(大島弓子)を思い出してしまう。夢の中に現れる悪魔に食べられてしまって、自分で自分を抑えきれなくなってしまった、と嘆くヒロイン。この作品では、それでもいいよ、と受け止めてくれるヒーローが彼女を救うのだけれど。

句集を読んで私は、あらゆるものを愛しすぎて、周りを無意識のうちに騒動に巻き込んでしまうような、愛すべき一人の少女(年齢や性別ではなく、精神の持ちようとしての「少女」だ)を句集内の主体として思い浮かべた。今回の文章で私は、その人間を「彼女」と呼ぶことにする。

  雛 の 夜 の 磨 り 減 ら し た る 下 ろ し 金
  青 嵐 愛 し て 鍋 を 歪 ま せ る
  溺 愛 の 笊 干 し て ゐ る 夏 の 果

下ろし金、鍋、笊、どれもこれもモノ自体のエネルギーを放出することなく、彼女の愛の対象としてのみ存在している。彼女が一心に愛を傾ける姿が見えて初めて、対象が美しくみえるような、受動的な存在だ。その存在のあり方は、とてもだらしなく映る。彼女の愛の深さに耐え切れないというように、磨耗して歪んでいくだけのモノたち。

青嵐の句を読むと、私は決まって伊藤比呂美の詩「歪ませないように」を思い出すのだが、伊藤の詩が愛する男に白玉を作り、食べさせる行為から性行為に至るまでを、温度と弾力に溢れた言葉で綴っているのに対し、青嵐の句には温度も弾力もない。注がれる愛とその結果としての鍋の歪みがあるだけだ。もちろん、その不器用さ、激しさ、鍋のふがいなさへの不可解な満足感がこの句の魅力であるのだが。

そういえば、

  長 き 夜 を 押 せ ば へ こ め る 護 謨 人 形

という句もあった。人形もまた、彼女の指先に弾力で応えようとはしない。へこむだけで人形は彼女に愛される。彼女の愛にあぐらをかいているだけでよい。なんとまあ、うらやましいことか。

  う つ く し き 無 花 果 む ざ と 割 り く る る

無花果を割る誰かの指先を見て、彼女がはっと息を呑む声が聞こえてきそうだ。その「はっ」は、ああなんてむごいことを、という嘆きでもあり、ああ何で私にぱっくりやらせてくれなかったのあなたひどい人ね、という悔しさでもある。この句の、無花果への高揚した気分は相当なもので、これはもう発情といえるレベルでは? とすら思える。しかも、割られた無花果に発情する自分の残酷さへの嫌悪感もほのかに感じられるから何だかややこしい。

  寝 に 帰 り 茉 莉 花 の 鉢 倒 し た る
  踏 む た び に 沈 む 畳 や 百 日 紅

自らのサディスティックな性質に多分に意識的である彼女は、自らを破壊者に見立ててみたりもする。無花果の句にあった、美の破壊をどこか傍観的に見つめる視線はここでは皆無だ。ここでは破壊者はまぎれもなく自分自身。ジャスミンの鉢を倒したのはわたし。体重で畳を沈ませたのもわたし。

わたし、わたし、わたしだよ、と行動の主体を露悪的に、おどけたように示す彼女の自我が、別のかたちで大きく膨らむのが次に紹介する句である。
 
  わ が 息 の 充 ち し ビ ニ ー ル プ ー ル か な

彼女が膨らましたプールで遊ぶ人々。その中に彼女自身がいてもいいだろう。ポイントは、そのビニールプールが「わが息」で作られたものだということだ。ビニールプールという小さな世界の創造者たる彼女。そしてその中で遊ぶ、彼女が愛する(憎んでいる可能性もあるけれど)人々。自分が作り上げた世界で遊んでいれば、彼らは決してわたしに背くことはないのだ、という、神の如き全能感。しかし、ここには落とし穴が待っている。「われ」が作り上げた世界の原材料が、「息」という実にはかない物質であるという、動かし難い事実の滑稽さだ。「わが息」を抜かれてしまったら、ビニールプールはしぼむ。彼女の帝国は一瞬にして滅ぶ。

  包 丁 を 持 つ て 驟 雨 に み と れ た る

この句集の価値観の根幹を成す一句であると思う。

美しさに憧れる心とそれを汚したい心。世界に恋をして、世界に刃を向ける彼女の眼差しは、いつだって何かに魅入られている。

矛盾と熱情と自己嫌悪を豊かに含んだ『桃』は、句集というよりも少女的な感性が作り上げた文芸の一つとして記憶されるべきなのかも知れない。





2 comments:

匿名 さんのコメント...

たいへん興味深く拝読致しました。辻桃子さんに傾倒し『俳句ってたのしい』『桃童子』『ねむ』などをむさぼり読んでいた頃にはすでにふらんす堂の辻桃子集も入手困難だったので、第一句集『桃』のさわり(そして恐らく心髄)に今回触れることができ、これもまた『週刊俳句』の懐の深さのなせる技と思いました。ありがとうございます。
 辻桃子さんには、いっぽうで「老婆としての辻桃子」とでもいうべき、伝統回帰の側面もあり、それがひとりの人間の中で同時に発生していることにより、妖しげな魅力を放っているのだと思います。

匿名 さんのコメント...

初めまして。うみねと申します。

松本さんが出演されたBS俳句王国見ました。「三面鏡」の句とても印象的でした。

今回投稿されてた「少女としての辻桃子」で辻先生の初期の作品を読めて嬉しかったです。

私自身の俳句歴は浅いですが、高浜虚子、高野素十、波多野爽波と全句集を写しながら「写生」の系譜を辿っています。波多野先生の門下の方の句集はとても勉強になります。