澤田和弥 妻がをり
蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり
船長の遺品は義眼修司の忌
修司忌や火に包まるる星条旗
ハーメルンの笛吹き男修司の忌
修司忌の妻は手紙を推敲す
空色のTシャツを手に修司の忌
預言者の真黒き瞳修司の忌
貧しさに清らかはなし啄木忌
永き日のわざと忘れし手帳かな
追伸に「子が生まれた」と麦の秋
咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜
無銭無職や向日葵に見下ろされ
外せども赤き名残の水眼鏡
夕立にいきなり透ける肩の紐
母の日の花を片手に蕎麦屋行く
チャイムなりけり教室に青嵐
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す
帰省子に吠えたる犬のおじけづく
時の日の一代限りの寿司屋かな
新妻のきつぱりしたる祭髪
金貨一枚沈みゆく泉かな
泉あり老女眠れるごとく浮く
失脚の暴君の墓泉わく
父無言故郷の滝落ちにけり
五月雨や旅館街には旅館の灯
とびおりてしまひたき夜のソーダ水
へなへなに炒められたる茄子のごと
紫蘇の葉に包めぬほどの刺身かな
ゆでたての蚕豆があり妻がをり
夕陽より真つ赤な蟹を食ひにけり
我輩はぬるきビールに手を出さず
六本木にも青黴の生えてをり
火の島の神に捧げるバナナかな
滴りて滴りて帰り道忘れる
夏闇や霊安室のベッド空く
春愁や吾が名を百度タイプする
病葉をほどきて過去を修正す
卓袱台を春の畑の真ん中に
鰄を細く細く焼きあげにけり
佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
放課後の教師種芋選りてをり
尼寺の春の仏の長き腕
春宵の仏教美術史学者かな
清和なりシーツ大きくひるがへる
開帳の仏の髪が見えるのみ
太宰忌やびよんびよんとホッピング
甘藍を剥ぎて剥がして何も残らず
折りたたむ白きパレット修司の忌
廃屋に王様の椅子修司の忌
男娼の錆びたる毛抜き修司の忌
■■■
2007-10-28
澤田和弥 妻がをり
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10 comments:
おそらくこの作者、寺山のこと嫌いなんだろうナァ・・・と直感する。もしかすると対外的には寺山ファンで通っていたりするのかもしれないけれど。
それと、きっちり有季で詠っているところ、反体制臭を感じるのは私だけだろうか。
以下好き句。
咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す
新妻のきつぱりしたる祭髪
火の島の神に捧げるバナナかな
卓袱台を春の畑の真ん中に
佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
太宰忌やびよんびよんとホッピング
男娼の錆びたる毛抜き修司の忌
朝比古様、コメントいただきまして真にありがとうございます。
寺山好きを自認しておりましたが、違うのかもしれません。深層心理が拙句に出ていたのでしょうか。一時期、寺山を心底嫌いになった時期があります。高校3年の青かった頃に寺山の「甘さ」が鼻について嫌いになったことがあります。もしかしたらまだその感覚が残っているのかもしれません。
長いものには窒息されても巻かれるタイプなのですが、反体制臭ですか!寺山の影響なのやもしれません。
改めましてありがとうございます。
一気に読みました。好きです、こういうタイプ!寺山修司のことはあまり知りませんが、この句群はとても好みです。後で、もう一度ゆっくり読みに帰ってきます。好きなものは最後に食べたい!
発句 夏闇や霊安室のベッド空く 澤田和弥
付句 妊婦受入れ決断の刻 民也
蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりにけり
船長の遺品は義眼修司の忌
夕立にいきなり透ける肩の紐
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す
卓袱台を春の畑の真ん中に
あたりが好きでした。
へなへなに炒められたる茄子のごと
は、
へなへなに炒められたる茄子のこと
だったら、好きでした。
追伸や墓や時の日、という措辞の選定が、今一歩踏み切れていない感じがしました。演じきっていないために、読んでいるこっちも恥ずかしくなってしまうような。
ちくちくと毛が飛び出す、みたいな路線が、個人的には結構好みです。
>桜さん
ありがとうございます。拙い手料理ですが喜んでいただけましたら幸いです。「芸術は美しくあってはならない」という言葉がありますが、やはり喜んでいただけますと私自身とても嬉しいです。改めましてありがとうございます。
>民也さん
おぉ、民也さん。あっ、ありがとうございます!「決断の刻」がかっこいいですね☆
>優夢さん
ありがとうございます。
演じきっていないですか…。どうも大根役者でして、申し訳ありません。五里霧中でございます。
戻ってくる前に作者の方からのコメントを頂戴してしまって恐縮です。
まず一句目
蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり
初手からクスッと笑ってしまいました。穴を出たものの、あんだこんなものかって。「なりけり」は「なりにけり」かなぁと思いましたが、この諧謔に当てられました。
修司忌や火に包まるる星条旗
祖国のイメージを自国でなく未だに戦いに明け暮れている他国に置いての修司忌。いや、反転すれば、祖国の記憶か。しかして、祖国とやらのありやなしや。
貧しさに清らかさはなし啄木忌
清貧を詠って有名な歌人、けれど私生活では結構いい加減だったこともつとに知られている人物の忌。今も昔も清らかさだけでは生きられない。自明の理。
追伸に「子が生まれた」と麦の秋
大地も人間も豊穣。そして淡々と生くるのみ。きっぱりと男性的。
咲かぬといふ手もあっただらうに遅桜
そうか、その手があったんだ!生きる知恵。
無銭無職や向日葵に見下ろされ
だからって何だ!という開き直り。ダイタヒカルみたいな感想ですみません。
夕立ちにいきなり透ける肩の紐
白のブラウス、お約束の場面と言いながら、今までこういう風に詠まれた肩ひもを知りません。
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す
説明のいらないみんなの記憶。そうそうって頷けます。この子、泳ぎは苦手そう。(笑)
泉あり老女眠れるごとく浮く
観念の世界の泉(あえての言い切り)に何を浮かべるか。それはそのまま作者の心象風景でしょう。作者自身の投影でしょうか・・。(注)性別、年齢は関係ございません。また、写生だった場合は御容赦下さい。
とびおりてしまひたき夜のソーダ水
私ごとですが、ちょっと今こんな心境なのでグッときてしまいました。しばらくの間、ソーダ水は買わないことにしよう。
ゆでたての蚕豆があり妻がをり
妻と蚕豆を並列に詠みながらも「あり」と「をり」の立て分けがほほ笑ましい絵のやうなひと時。時は流れて行くからこそ愛おしい。
以下、あまりにも長くなりますので好きな句を挙げさせていただくだけにしたいと思います。
夕陽より真っ赤な蟹を食ひにけり
滴りて滴りて帰り道忘れる
卓袱台を春の畑の真ん中に
佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
開帳の仏の髪が見えるのみ
全体に、やや散漫な言い回しがあるものの、あまりねぢリ過ぎることなく、誰が読んでもすっと腑に落ちる句が多く、それでいて作者の醸し出す雰囲気に酔わされていく、そんな感じで浮き浮き読ませていただきました。ありがとうございました。
澤田和弥様
鮟鱇です。こんばんは。玉作、拝読いたしました。
蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり
石原ユキオさんの「スッピン」句を天気さんが「確信犯の(語弊はありますが)自爆だ」と評していますが、掲句は、その予告でしょうね。以下「忌」もの七句連続の爆弾。どうせなら、残り四十九句全部「忌」ものにしたほうが、パンチがあったと思いますけど。
石原さんがあなたを戦友だと思っているらしきことに私は?でしたが、きょうその謎が解けました。
要するに、饒舌なんです、あなたは。それが、スゴイ魅力。そして、饒舌であるということは、年寄りの俳句では、シンネリムッツリ系が多いことを思えば、快哉和弥!です。
年寄り俳人は、西鶴の俳を思うべしです。それで何が悪いか。
咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜
帰省子に吠えたる犬のおじけづく
時の日の一代限りの寿司屋かな
新妻のきつぱりしたる祭髪
ゆでたての蚕豆があり妻がをり
夕陽より真つ赤な蟹を食ひにけり
六本木にも青黴の生えてをり
などがいい。「など」は、これ以上拾うのが面倒だからだし、饒舌だから佳作であるものをつまみ食いしては、牛の角を矯めてしまうからです。
ただ、よくわかんない句もありますね。
父無言故郷の滝落ちにけり
この句はちょっとわからない。お父さんが亡くなって納骨かなにかの歸郷ですか?
五月雨や旅館街には旅館の灯
旅館街に旅館の灯が灯るのは、五月雨の時だけですか?
我輩はぬるきビールに手を出さず
この句、選者はきっと怒りますよ。なぜ怒るかはよくわからないけど、きっと読まされたことを怒るのでしょう。
でも、この種のナンセンスは、連作のなかではきっととても生きるのです。
金貨一枚沈みゆく泉かな
泉あり老女眠れるごとく浮く
失脚の暴君の墓泉わく
この三句、物語が見えますね。そこで、拙作にいただきました。
七絶・讀澤田和弥先生之玉句作一首 2007.11.14 -1962
墟墓千年埋暴君,地中流涙酒泉噴。
試投金貨沈澄水,老嫗嗜眠浮上春。(中華新韻九文の押韻)
墟墓千年 暴君を埋め, 墟墓=荒れ果てた墓
地中に涙を流せば酒泉噴く。
試みに金貨を投ぜば澄水に沈み,
老嫗 嗜眠しつつ春に浮上す。 老嫗=老婆
>桜さん
ありがとうございます。いろいろな句にご感想をいただけましたこと真にありがたく感じております。
「ソーダ水」の句は大学時代から常に自分に付きまとっている感覚です。同じ感覚を抱いてくださる方がいらっしゃることに自分が生きることの何らかの意味を感じます。そしてそれは自分が俳句を作る意味なのかもしれません。またこの落選展に応募させていただいた理由かもしれません。ありがとうございます。この世は蛇でなくとも馬鹿馬鹿しいことだらけです。生きることの意味というものを哲学レヴェルではなく、もっと身近に考えたいと思っております。
>鮟鱇さん
ありがとうございます。饒舌でありましたか。確かにおしゃべりな方ではあります。
鮟鱇さんが疑問に思われた句について自句自解はしません。作者の手を離れれば作品は常に一人歩きするものなので。鮟鱇さんに伝わらなかったのは私の勉強不足です。すみません。
漢文の勉強を大学時代に勉強していたのですが、漢詩については全くの門外漢です。とても勉強になります。
「なにがやりたいんだ」という、近ごろ定番のツッコミは、思い(あるいは狙い)があふれすぎて、宙吊りになってしまった演者を、その思いの空回りごと着地(あるいは成仏)させようという言葉です。
蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり
いきなりのこのリズム感で、コンペ的にはきつかったろうと思われるけど、その毀れっぷりに期待が高まります。たしかに「なりにけり」でも「出でて」でも、やりようはあったでしょうが、作者が、これで、と言うんだからしかたがない。
咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜
無銭無職や向日葵に見下ろされ
滴りて滴りて帰り道忘れる
日常の句も、楽しい。
へなへなに炒められたる茄子のごと
紫蘇の葉に包めぬほどの刺身かな
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す
キッチュに「すごい」言葉を並べた句も、芸風だと思う。
太宰忌やびよんびよんとホッピング
男娼の錆びたる毛抜き修司の忌
でも、やっぱり、ちょっと、ばらばらじゃん?
愛をこめて、作者に、例の言葉を贈りたい。
「なにがやりたいんだ!!」
あと、妻、妻、言ってるのは、ふざけているのだと思うのですが、その「ふざけ」が、作品になっているかどうかは、かなり疑問。
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