金子 敦 チェシャ猫
鳥雲に入るや微糖の缶珈琲
花吹雪浴びながら行く神経科
効能の行間細き余寒かな
てのひらに載せて抗鬱剤おぼろ
しやぼん玉の中に閉ぢ込められし僕
花散つて脳下垂体乾きけり
とりあへずメール確認春の風邪
チェシャ猫のにやにや笑ふ春の闇
春愁を詰めたる箱の置きどころ
蒸籠より出したばかりの春の月
短夜の森の上飛ぶ一角獣
真夜中に開く水中花の蕾
彼の世よりうすむらさきの海月来る
紫陽花の髑髏のごとく萎れけり
下闇に転がる目玉らしきもの
炎昼やどこへ行くにも影連れて
頓服の薬たしかめ炎天下
水打つて誰とも口を聞かぬ人
寂しさはこの噴水の高さほど
昼寝覚自分が遠くなりにけり
夕立に睫毛の先を打たれけり
虹消えてわが分身の戻り来る
能舞台よりひらひらと黒揚羽
迎火の煙をよぎる烏猫
ティーカップに秋夕焼の沈殿す
終点に降りて色なき風の中
秋の海なにか喋つてくれないか
耳奥に月光溜まる渚かな
銀漢の渡舟乗り場はどこですか
月よりも遥か彼方の吾を呼ぶ
鈴虫のこゑに鏡の震へけり
鶏頭の襞の深さを思ふべし
曼珠沙華橋のたもとを焦がすほど
難解な詩の終連に蚯蚓鳴く
パソコンのマウスさまよふ夜長かな
秋蝶にこの森暗過ぎはせぬか
銀杏散るベンチは吾の予約席
神の留守棒線で消す一氏名
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
髭を剃る鏡の中のしぐれけり
わが胸に枯枝の影刺さりけり
空缶を蹴飛ばし十一月となる
北窓を塞ぐ手首の軋みけり
人よりも猫あたたかき枯野かな
ぎんいろの風に磨かれ冬の月
寒月の小さきかけら拾ひけり
裸木に星の触れたる微音かな
冴ゆる夜に発芽する詩のやうなもの
スパイスの利き過ぎてゐる聖夜かな
パソコンの唸り続ける去年今年
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2007-10-28
金子敦 チェシャ猫
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15 comments:
素直な気持ちが出ているように感じました。
春愁を詰めたる箱の置きどころ
短夜の森の上飛ぶ一角獣
寂しさはこの噴水の高さほど
秋の海なにか喋つてくれないか
空缶を蹴飛ばし十一月となる
人よりも猫あたたかき枯野かな
冴ゆる夜に発芽する詩のやうなもの
特に「寂しさはこの噴水の高さほど」に
心惹かれました。
コメントをありがとうございます。
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水打つて誰とも口を聞かぬ人
終点に降りて色なき風の中
耳奥に月光溜まる渚かな
わが胸に枯枝の影刺さりけり
相変わらず上手です。そしていい意味で「甘い」です。
掲出句は今までの金子さんの世界観から一線を画した、ハードボイルドタッチの句で楽しませていただきました。とても好きな句です。
花吹雪浴びながら行く神経科
てのひらに載せて抗鬱剤おぼろ
頓服の薬たしかめ炎天下
「ながら行く」「載せて」が冗漫な印象を受けるので残念です
頓服の薬ですので「たしかめ」まで言わなくてもいいと思いました
夕立に睫毛の先を打たれけり
耳奥に月光溜まる渚かな
鈴虫のこゑに鏡の震へけり
好きでした。偶然ですが、同じ形の作品です
どれも詩情溢れる作品ばかりで感動しました。
寂しさはこの噴水の高さほど
虹消えてわが分身の戻り来る
秋の海なにか喋つてくれないか
鶏頭の襞の深さを思ふべし
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
以上が、特に共感を覚えた作品でした。
全体的に憧れるような作品がたくさんありました。
全体的に金子さんらしい作品とは思いますが、若干上滑りかな?
水打つて誰とも口を聞かぬ人
神の留守棒線で消す一氏名
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
といったあたりは、新しい感じがあってうまくいっていると思いますが、
花散つて脳下垂体乾きけり
チェシャ猫のにやにや笑ふ春の闇
耳奥に月光溜まる渚かな
といったあたりはどうでしょう?
上手いのだけれど・・・。
落ち着かないもの達の美しさを感じました。
紫陽花の髑髏のごとく萎れけり
滅び行く無残なものの美しさです。
花吹雪浴びながら行く神経科
孤独なのは、僕だけじゃない。友が居る とういう安心感です。
月よりも遥か彼方の吾を呼ぶ
でも、寂しい。
僕達は、最後まで歩けますか?
鳥雲に入るや微糖の缶珈琲
花吹雪浴びながら行く神経科
花散つて脳下垂体乾きけり
チェシャ猫のにやにや笑ふ春の闇
春愁を詰めたる箱の置きどころ
彼の世よりうすむらさきの海月来る
下闇に転がる目玉らしきもの
水打つて誰とも口を聞かぬ人
寂しさはこの噴水の高さほど
能舞台よりひらひらと黒揚羽
終点に降りて色なき風の中
秋の海なにか喋つてくれないか
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
わが胸に枯枝の影刺さりけり
空缶を蹴飛ばし十一月となる
裸木に星の触れたる微音かな
冴ゆる夜に発芽する詩のやうなもの
一読して心地よい戦慄が全身に流れました。体内に電流を感じました。「かもしれず」に引きずられているのかもしれませんが、この感覚は三橋鷹女の句に接したとき以来です。
「境目の綱渡り」というようなものを感じました。虚実皮膜の間に文学はあるといいます。虚と実は非日常と日常とも換言できます。または狂と常とも置き換えられるように思います。日常を日常のまま提示してもそこには人の目をひきつけるものはなかなかありません。どっぷり非日常では一部の方々以外には理解不能です。その虚と実の境目を行くことがもっとも魅力的な文学だとおもいます。特に境目にいながら虚に重心が置かれているとより魅力的です。この方の俳句はまさにそのようなものであると思います。
虚の世界は本来覗き込んではいけない世界です。しかし「見ちゃダメ」と言われると見たくなるのは「鶴の恩返し」の老夫婦だけでなく、誰にでもある気持ちです。覗き小屋が一時期流行ったのもそういう心理でしょう。この方が覗き見させてくださる虚の世界はなんとも魅力的なワンダーランドです。これからさらにどんな世界を見せてくださるのかとてもわくわくします。
自分が取合せの句が苦手なせいか、一句一章の句がほとんどですっと心に入る句が多かったです。
やや甘さと緩さが気になる句
しゃぼん玉の中に閉ぢ込められし僕
とりあへずメール確認春の風邪
はありますが、
鳥雲に入るや微糖の缶珈琲
水打つて誰とも口を聞かぬ人
夕立に睫毛の先を打たれけり
鈴虫の声に鏡の震へけり
空缶を蹴飛ばし十一月となる
など惹かれます。もっと微糖路線の句が見たいなあと思わせる作者ですね。
終点に降りて色なき風の中
敦さんの句は、いつも一枚の絵になる。
それもモノトーンの・・・。
でもこの一句には色を感じました。
色なき風なのになあ・・・、不思議・・・。
一気に五十句、五十句の扉を開けてここまで来ましたが、この部屋は・・また随分と趣の違う空間です。やんわり暖かいというか、癒されつつ、嘆かされるというか・・。以下、好きな句を挙げさせていただきます。
花吹雪浴びながら行く神経科
効能の行間細き余寒かな
蒸籠より出したばかりの春の月
短夜の森の上飛ぶ一角獣
彼の世よりうすむらさきの海月来る
紫陽花の髑髏のごとく萎れけり
寂しさはこの噴水の高さほど
ティーカップに秋夕焼けの沈殿す
秋の海なにか喋つてくれないか
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
髭を剃る鏡の中のしぐれけり
冴ゆる夜に発芽する詩のやうなもの
精神の柔らかさ、傷つきやすさ、そんなものを感じる作品群でした。この水準でも落選するのですか。ちょっとギモン。
発句 秋蝶にこの森暗過ぎはせぬか 金子 敦
付句 中古テレビに座して憩ひつ 民也
花吹雪浴びながら行く神経科
紫陽花の髑髏のごとく萎れけり
虹消えてわが分身の戻り来る
鈴虫のこゑに鏡の震へけり
北窓を塞ぐ手首の軋みけり
人よりも猫あたたかき枯野かな
あたりが好きでした。
描こうとしている世界観がはっきりしていて、それが結構好きなものだったので、安心して読めました。
ただ、前半の方が迫ってくる句が多かったように思います。
金子 敦様
鮟鱇といいます。玉作拝読しました。
私なりに選句をさせていただこうとしていたのですが、一連のなかから句を切り取ってしまうと、感興が半減するような感じがしました。それぞれの句にある種ねばりがあって、隣りの句にへばりついているようです。それを無理に剥がすと、チェシャ猫が尾から消えていくのです。
そこで気が付いたのですが、金子さんの五十句の感興は、句として独立しているものを集めたところにあるのではなく、全体にあるのではないか、ということです。五十句を五句一段とし、十段とする構成、つまりは五行詩の連作十篇を読む感じがします。
「チェシャ猫」、タイトルがいいですね。読者はどうしてもアリスを思い浮べます。そして、幻想、童話、そういう物語性を読み取ろうとするわけですが、作者の金子さんにしても、「うつ病」を詩題とする一連の物語性のなかで、句を詠んだのではないでしょうか。
鳥雲に入るや微糖の缶珈琲
花吹雪浴びながら行く神経科
効能の行間細き余寒かな
てのひらに載せて抗鬱剤おぼろ
しやぼん玉の中に閉ぢ込められし僕
最初の五行詩は、一・二・三行で起承、四・五行で転結になっています。つまり、一・二・三行がひとまとまりとなって、三行目でいったん切れ、残りの四・五行で二句一章になっているように読めます。
てのひらに載せて抗鬱剤おぼろ 転句
しやぼん玉の中に閉ぢ込められし僕 結句
以下、
春愁を詰めたる箱の置きどころ 転句
蒸籠より出したばかりの春の月 結句
紫陽花の髑髏のごとく萎れけり
下闇に転がる目玉らしきもの
寂しさはこの噴水の高さほど
昼寝覚自分が遠くなりにけり
迎火の煙をよぎる烏猫
ティーカップに秋夕焼の沈殿す
銀漢の渡舟乗り場はどこですか
月よりも遥か彼方の吾を呼ぶ
難解な詩の終連に蚯蚓無く
パソコンのマウスさまよふ夜長かな
冬の蠅こゑはバリトンかもしれず
髭を剃る鏡の中のしぐれけり
人よりも猫あたたかき枯野かな
ぎんいろの風に磨かれ冬の月
スパイスの利き過ぎてゐる聖夜かな
パソコンの唸り続ける去年今年
五句をもって三句・二句の二章をなすこと、金子さんがどこまで意識されているのか私にはわかりませんが、金子さんは、俳人であるよりも詩人なのか、と思えてなりません。これ、いいとかわるいとかではなく、五七五の中で二句一章をやるのか、句を連ねるなかで二句一章・二章一篇をやるのかという違いがあるだけです。そして、一句のなかで二句一章として完結することが常によい(つまり俳句だけが唯我独尊的によい)のではなく、句を連ねるなかで二句一章をやれば、二章をもって一篇とする詩作りが可能になります。それを俳句と呼ぶのが適切でなかれば、蕪村に先例がありますが、俳詩と呼べばいい。
人よりも猫あたたかき枯野かな
ぎんいろの風に磨かれ冬の月
この二句は、それぞれを独立句として読むよりは、二句を一体に読む方が感興があります。他の組も同様。
七絶・讀金子敦先生之玉句有感作一首
終点站台無色風,耳中月下海濤声。
未到津頭渡銀漢,不能萬里趁吾生。
終点の站台に無色の風,
耳の中には月下の海涛の声
未だ津頭に到り銀漢を渡れずして
万里に吾生を趁(お)う能はず
先日一読し、今日はじっくり読ませていただきました。まだ好きな句が沢山有るのですが、詩心もみえ余韻を感じました。
春愁を詰めたる箱の置きどころ
彼の世よりうすむらさきの海月来る
寂しさはこの噴水の高さほど
虹消えてわが分身の戻り来る
終点に降りて色なき風の中
わが胸に枯枝の影刺さりけり
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