2007-11-04

成分表11 カンペキの神 上田信治

成分表11 カンペキの神 ……上田信治

                          初出:『里』2006年10月号



いやしくも物を作るからには、完全を期して作るべきだと思う。当然、力が足りず苦しむことになるが、とりあえずは目指す。

神ならぬ身のなすわざに完全などありえない、と慣用句的にそう思ってしまうが、よく考えると、そうでもない。完全なダブルプレー、完全な休日、完全なオムライス。

完全は、この世にごくふつうに存在する、物事の相の一つだ。

いしいひさいちによる、ある完全な四コマ漫画。家の中に飛んできた蜂を追い出そうとする山田家の人々。蜂は、おかまいなしに飛び、やがて仏壇の中へ入っていく。「それっ」と、仏壇の扉を閉める人々。四コマ目。塀越しに山田家を見る隣家の主人に、視点が切り替わっている。山田家の庭先に、こちらむきに突き出された扉全開の仏壇。隣家の主人「おいおい…」。

これが完全というものだ。複雑な心情をあらわす、正確な細部とタイミング。たとえば隣家の主人の台詞が、さりげなく、背後にいる妻にむかって言われているらしいこと、家の窓を細く開け、様子をうかがう主人公が、仏壇のうしろに見えていること。

完全な細部を持つ作品には、カンペキの神様が降りている。

カンペキの神様とは、自分の個人的な信仰の対象で、ビリケンさんのような物だと思ってもらえばよい。ビリケンさんが何かと聞かれたら、それはよく分らないが、ともかく。

作品は完全であるとき、それ自身の全体性を持つことによって、作者の恣意による世界から、もう少し確かな場所へと、存在のレベルを移行する。一個人の作物というよりも、この世に生えた何かとして、存在することを許されるようになる。

それを、細部の積上げによってなし得るはずだ、という思いこみは、やはり信仰と呼ぶべきなのかもしれない。

かつて飯島晴子は「詩、殊に定型短詩では、偶然が力を貸さなければ、何ほどのことも出来ない」と書き、一方で「俳句の現在は、意識の効力と、完璧を愉しむこととを忘れているのではあるまいか」と書いた。

それから二十年近くを経た俳句は、偶然と意識と完璧とをどう扱っているか。実作上、偶然を呼び込むことと、完全を期することの二つを、態度としてどう両立させるか。それは意識をフルに働かせながら、口が半開きになっているとか、そういうことか。

いや、そこはきっと、ビリケンさんのお力を借りるしかないのだ。


  人の身にかつと日当る葛の花   飯島晴子




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