2008-02-24

成分表 16 幸福 上田信治

成分表 16 幸福 
上田信治

初出:『里』2007年3月号



「幸福とは、納得の従属変数にすぎない」と言った人がいた。つまり幸福の多寡とは、おかれた状況に本人がどれだけ納得しているかに依存するのだ、と。

たしかに、街頭でいきなり「あなたは今シアワセですか」などと聞かれ、「うーん、まあ、幸せと言うべきなんでしょうねー」というようなことを答えるときの「幸せ」とは、そんなものかもしれない。

あるいは、人生は、目標を達成したら幸せか、愛を得れば幸せか、というような問題の交通整理には有効な定義だろう。

しかし、じっさいに多くの人が、人生の目標あるいは人生の価値を計る尺度として幸福という言葉を使っている。そういう概念について、それは主観的にどうにでもなる、本人の人生に対する解釈や評価の問題に過ぎないんだよ、と言ってしまうことは、スマートかもしれないが、感じが悪いうえに、どこかしょぼい。

もっとすばらしい、たとえば「神」や「美」のような、絶対語としての「幸福」はないものか。

  蜜蜂の暮れてもどるや花明り  河東碧梧桐
  春暁や人こそ知らね木々の雨  日野草城

花明りが蜜のイメージにひたる郷愁、あるいはこの雨を見ているのは世界で自分だけと思う恍惚は、やはり幸福というべきものだと思う。そういうもので、人生の多くの時間が充たされればいい、と願わずにはいられない。

ここで思い至ったのは、いったん「幸福」と「幸福感」を、分けて考えたほうがいいのかもしれない、ということだ。

幸福感は、いきなりやってくる。妙に持続して「至高体験」と名がつくこともあるらしいが、ほとんどのそれは、一瞬胸を充たし、失われる。しかし、その瞬間の栄光は人生の目的とするに足るものではないだろうか。

そして、幸福も捨てたものではない。

なるほど、それは本人の納得から発生する心境の一種なのかもしれないが、納得には深浅というものがある。人生(という語にも定義が必要ですが)全体にしみわたるような、深々とした納得、というものがありうるのではないか。

  老人にほくろがありてあたたかし 今井杏太郎
  玉葱の花咲く田舎時間かな    桑原三郎





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