2008-10-26

鷹女への旅  第5回 三宅やよい

 鷹女への旅  第5回

 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり



 三宅やよい

初出『船団』第68号(2006年3月1日)



六月八日(火)

昨日に引き続き、今度は小野蕪子の「鶏頭陣」と同人誌「紺」の時代の俳句を俳句文学館で調べてみることにする。この時代に鷹女は次々と初期の代表作になる作品を生み出している。「鹿火屋」で培った土台を基に自分なりの磁場を持った俳句に目覚めていったというべきか。雑誌が残っているかどうか、閲覧室にあるカードを繰る。「鶏頭陣」は「鹿火屋」に比べて残っているバックナンバーが極めて少ない。ほとんど飛び飛びにしかないのが残念。これではこの時代の概容を掴むことはできない。「紺」にいたっては一冊だけだった。こういう場合次の手立ては国会図書館だろうか?(後日国会図書館を訪ねてみたところ、なんとこれらの雑誌は一冊も保管されていなかった。国会図書館だからあると思うのは間違えであるらしい。俳句雑誌の保管における俳句文学館の意義を再認識させられた。)

ともかく残された雑誌を読み進めてみよう。


小 野 蕪 子 の 黒 い 噂

鷹女とその夫謙三の移籍した「鶏頭陣」の小野蕪子は京大俳句事件に関連して黒幕と噂される人物である。大正十年、石鼎は小野蕪子発行の『草汁』を譲り受け『鶏頭陣』『平野』『ヤカナ』三誌を合併して『鹿火屋』を発刊した。小野蕪子も昭和の初めまでは有力同人として「鹿火屋」の中で選を請け負ったり、文章を書いたりしている。それが昭和四年には再び自分の主宰する『鶏頭陣』を発足させている。小野蕪子が石鼎のもとを去ったのは昭和五年頃。歩行に困難をきたすほど進行した石鼎の病気も原因の一つだったかもしれない。小野蕪子の亡くなった昭和十八年五月号を見ると、虚子、誓子、秋桜子をはじめ俳壇の大御所たちの追悼文が掲載されている。放送局の文芸部長を勤めたこの人は、当時の俳壇の有力者でもあった。大政翼賛運動の文芸面での推進運動を推し進める彼が内務省筋に反戦的俳人についての情報を流しているのでは、という見方が当時からあったのは、次の文章からもわかる。

早くも昭和十一年十月の「京大俳句」誌上で平畑静塔が諏訪望の筆名で、「鶏頭陣主幹の選句後記に依れば、近来俳句の危険思想に対して当局が目をつけるとの事故吾等は清く豊かな俳句に進まういう云々と云ふのがあった。主幹は帝都の某官営文化事業にたづさわる人であれば、この言は相当確な筋からの聞き書きとしていいだらう。」と、書いていることからみて、小野蕪子が早くから当局との何らかのつながりを持ち(直接にしろ間接にしろ)情報を得ていたことの裏付けはとれる。その後、昭和十五年の「京大俳句」弾圧、昭和十六年の四誌一斉弾圧と続く弾圧事件の流れの中で、小野蕪子が国家権力と通じ、その力を弾圧というかたちで、新興俳句を中心として、「ホトトギス」の中村草田男氏などを含めた俳壇・俳人のうえにふるうようになっていったことは、既に俳句弾圧研究史上明らかにされていることである。(川名大 「京大俳句」弾圧事件のNと西東三鬼)

小野蕪子については、「西東三鬼のスパイ説」訴訟裁判の原因にもなった小堺昭三の『密告~昭和俳句弾圧事件』、永田耕衣をモデルにした城山三郎の『部長の大晩年』にも自分が弾圧の対象になるのではと釈明を兼ねて小野蕪子宅に訪れる草田男や耕衣が応接室で彼を待つ緊張の様子が描かれている。面会を謝絶されることは不穏な表現活動をしている俳人であると規定され、逮捕される状況に追いやられることでもあった。軍部と結びついての絶対的権力を当時この人物は握っていたらしい。

どうして鷹女はこのような人物のところへ、と疑問に思うかもしれないが、鷹女同様永田耕衣も同じ時期にこの人のもとに身を寄せている。骨董から書、絵にかけて見識のある趣味人だったようで、「鶏頭陣」の裏表紙も石鼎同様、自分で描いている。鷹女と剣三は同時期に「紺」という同人誌にも参加したが、この同人誌は短命で鷹女も女性欄の選句を中途で辞退したようである。


昭 和 十 一 年 鷹 女 開 花

昭和十年九月一九日。鷹女は小野蕪子を故郷に招いて「蕪子先生歓迎俳句大会」なるものを開催している。場所は現在の新勝寺裏手にある公園の池の側にあった新更会館で、現在はもう残っていない。成田の名士の一族の子女として生まれた鷹女は故郷に帰り、久しぶりに父が献身的に仕えた石川昭勤とも面会し、存分に蕪子と鶏頭陣の俳人達をもてなしている。俳句で詠みたいものは「孤独」と答えた後の鷹女からは想像もつかないが、若き日の鷹女は句会、吟行、大会と機動力を存分に発揮していたのである。

このときの俳句大会でも鷹女は一〇点を獲得して上位入選している。

  秋風やほむらをあげし曼珠沙華

  秋風の吹くとて濃ゆき口紅を

主宰の蕪子はこれらの句に最大限の賛辞を尽くしている。

これはいい句だと思ふ。一莖の花は不動の火焔を見るやうだ。支那人は秋風の事を金風といふ。秋風の感じは金だ、金色だ。その秋風の中に曼珠沙華がほむらをあげてゐる。

「鶏頭陣」において鷹女は評判の俳人だったようだ。鷹女にとって「鶏頭陣」に移った昭和十一年は、「鹿火屋」で培った俳句を土台に鷹女独自の感性が一気に花開いた年だった。十一年二月「雑詠を語る」という座談会には夫謙三とともに参加して同人の句についての忌憚のない意見を述べている。十一年六月号においては、雑詠欄で巻頭となり、林 厨子なる人によって「鷹女さんといふ人」という作品、人物評が掲載されている。このときの文章は「鶏頭陣」に所属する男の俳人から当時の鷹女がどのように見られていたかを伺い知るのにおもしろい文章である。

強靭で開放的で実は見えきらない(ぼくには見え透くやうに思ふ)鷹女さんの詩情には誰もが目を見はり現にわれわれ身辺にも賛嘆のこゑが高くて困るのであるから僕はあまりに誉めないで誉めたかけなしたか判らぬやうに心がけてみよう。

このような前置きで始まる作品評で鷹女の代表作とされるものが五句取り上げられている。

  春泥をいゆきて人を訪はざりき
  夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
  つはぶきはだんまりの花きらひな花
  笹鳴きに逢ひたき人のあるにはある
  日本のわれもをみなや明治節
(※「鶏頭陣」昭十一年六月号 林厨子「鷹女さんといふ人」文中表記のまま記載)

これらの句は発表直後から人々の耳目を集め、彼女が個性豊かな 新進女流俳人として認められていたことがわかる。この評論の中で厨子は鷹女を「特異性のはつきりした」「不思議な強靭さ」をもつ人物として描いている。

鷹女さんの特異性は殊に近頃に至つてその精華をきはめてゐる。仮にぼくはこれを奔流の美といふ。さだめしこの美には誰しもひとまづ困惑するであらうがそれは持ち主が女性だといふことに主因する。鷹女さんは芸術や人生に甘へることの出来る人ではなさそうです。対象や感懐を自己の奔流の中へ巻きこんでともに美事に流れゆく人である。


同 時 代 の 評 価 と 後 年 の 評 価

前掲の五作品のうち、

  笹鳴きに逢ひたき人のあるにはある

について厨子は次のように述べている。

「あるにはある」がべつに強いて逢はうとしないところに笹鳴きを聴きいる鷹女さんの偉さがある。鶯のやうにか弱い孤独感がどうせ逢つたつてつまらないといはせてしまふ。面と向かつては案外言葉の出ない鷹女さんではあるまいか。万一雄弁であつてもそれは詩情のみの然らしむるところであらうやうに思はれる。

同じ句について昭和五十一年、飯田龍太が述べた部分を引用してみよう。

女流俳句が、質量ともに盛大をきわめて来た昨今はともかく、四Tといわれた、当時、女流の多く、身辺即事をたおやかに詠った。時に繊細に、時に華麗に。女性がもっとも女性らしい姿を示したとき、俳壇はこぞって讃辞を呈した。 ~中略~ 卓上の花として眺めるためには「逢ひたき人のある」で止めなければいけない。「あるにはある」とつけ加えられては男性のこころを冷やす。だが、鷹女さんは、冷やそうが目をそむけようが、そう言い切らねば承知しないひとだったろう。(『三橋鷹女全集』昭和五十一年)

二つの論評を比べると、龍太は鷹女の全作品を俯瞰できる立場にあるせいか、「あるにはある」に厨子よりも強い意思、自立性を読み取っている。厨子は鷹女と実際に面識があり、時代感覚としての女性像にだぶらせてみている部分があり、はっきりと主張できない遠慮ととっている違いがおもしろい。どちらが鷹女のこの句の心情に迫っているかはわからないが、鷹女は龍太がこの論評に続けて言っているように、「女性であることを示すよりも、俳人であることを優位に置いた」方向に進もうとしていた。


鷹 女 と 新 興 俳 句

同年十月「俳句研究」に鷹女は自身の感覚と性に根ざした連作「ひるがおと醜男」を発表した。

  ひるがほや人間のにほひ充つる世に
  ひるがほに電流かよひゐはせぬか
  ひろがほにをとこ婬らの夢を逐う
  鼻のない男にみえるひるがほが
  ひるがほに愚かとなりてゆく頭痛
  真実は醜男にありて九月来る
  九月来る醜男のこゑの澄みとほり
  九月来る醜男の庭に咲く芙蓉
  九月来る醜男のかたへ赤く廣く
  九月来る醜男が吾にうつくしい

この時期の鷹女は「鹿火屋」でたおやかにおとなしく包み隠していた「女」が一気に開花する勢いである。厨子が読みとったより遥かに鷹女は大胆だった。この連作もひるがほが鷹女自身の化身、男の存在が醜男と断じられているために余計エロティクな存在感を持って描き出されている。「ひるがほ」は鷹女の視線でまったく異質のものに変貌して世界に現れ出たかのようである。この同時期はモダニズム詩の影響を受けながらも、高屋窓秋を中心に様々な表現方法を模索している最中であった。昭和十一年代の彼らの作品を引いてみよう。

  アダリンが白き艦隊を白うせり   西東三鬼
  折るふねは白い大きな紙のふね   渡辺白泉
  あをぞらが玻璃をあふれてくる机   小沢青柚子
  夢青し蝶肋骨にひそみゐき   喜多青子
  歯を磨く青い空気がゆれてくる   富沢赤黄男
  月光は魂なき魚を青くせり   村林秀郎

どちらかというと新興俳句に距離のある場所にいた鷹女であったが、口語文体や独自の感性を表現する斬新な表現でおのれの境地を開拓していった点が共通している。この頃の鷹女の作品は連作も多い。直接的な俳人交流はなかったにせよ、総合誌などで見聞きする新興俳句の雰囲気を鷹女の鋭敏な感性が反応せずに見過ごしてしまうわけはなかった。父や兄の庇護にあり「俳句が遊びごとに過ぎなかった」時代から生身の自分を等身大の言葉で大胆に表現することで鷹女は従来の俳句ののり矩をやすやすと超えてしまったかのように思える。鷹女は鷹女なりに自分の位置でこの時代の波を受け止めたのだ。鷹女の堂々たる女っぷりの前に青年俳人達の透明な抒情がもの足りなく思えてしまうほどだ。

この号の「俳句研究」には鷹女とともに渡邊白泉も掲載され。巻末には草城と草田多の「ミヤコホテル」をめぐる激しい応酬も掲載されている。鷹女が俳壇に躍り出た昭和十一年は従来の俳句の在り方が新興俳句の台頭によって大きく揺さぶられようとしていた時期でもあった。


夫 婦 競 詠 の 終 焉

夫謙三の句は鷹女と相反して十一年二月以降一句も掲載されていない。俳人の力量に大きな差がついてしまったことは鷹女も謙三もよくわかっていただろう。大きく力を伸ばしていった鷹女だが、昭和一三年にはこの「鶏頭陣」を退会し、牛込句会も解散。「鹿火屋」同様、将来を嘱望される俳人であるにもかかわらず鷹女はこれ以後結社にかかわることはなかった。俳人同士の夫婦でもあった二人の関係についてご子息の陽一氏は、次にように述べている。

三橋(陽) (父は)最初は争ってね、先生に俺の方が何句とられたとか、威張ったり、もともと先輩だったわけだから、俳句はね。けれども、途中からは完全にしゃっぽ脱いで応援者に回りましたね。でも好きだから一緒にやって、批評のしあいはよくやっていました。(「市民が語る成田の歴史」)

剣三がシャッポを脱いだのはいつからだったのだろう。

  燕来て夫の句下手知れわたる

…と二十六年に辛辣にいい放った鷹女であったが、彼女がのちに指導するようになった句会の席上で鷹女は夫を必ず「剣三先生」と呼び、常にいっしょに行動していたようである。嫁の絢子さんの見るところでは、

三橋(絢) やっぱりいろいろ知識とか何とかね。父の方が助ける面もあったみたいだし、でも母の方は謙三は俳人ではないとおっしゃっていたようですけれども。だから問題にしてなかったというか。そういうふうにお見受けできましたけれども。ただやっぱりいろんな世間的知識とか、そういうものは父が広いですから、そういう面でいろいろとアドバイスを得たりということはあったと思います。

…と、いう形で二人の関係は安定していたようだ。

気遣いもあり、物静かで考え深げながらも自分の意思と感情ははっきりと持った女性。まぶしいほどの個性を伸ばし始めた鷹女は四年後、続けて二冊の句集を上梓することになる。


(つづく)



【参考文献】
川名大『新興俳句表現史論攷』(桜楓社)
小堺昭三『密告~昭和俳句弾圧事件』ダイヤモンド社
城山三郎『部長の大晩年』朝日新聞社
『鶏頭陣』昭和11年・第2号、第5号、第6号
『俳句研究』昭和11年10月号
『市民が語る成田の歴史』成田市叢書第二集
『三橋鷹女全集』立風書房



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