2008-10-19

〔週俳9月の俳句を読む〕藤田哲史 小津安二郎的挙動

〔週俳9月の俳句を読む〕藤田哲史
小津安二郎的挙動


深夜に「秋刀魚の味」のDVDを見ていた。小津安二郎の「秋刀魚の味」。
いわゆる「自然な」演技に馴れている目には、小津の映画に出てくる人たちの動きはどことなくぎこちない。
喋りながら動く、というのが少ない。動いては静止し、喋る。また動く。止まって喋る。それを繰り返す。
綺麗な静止画が先に小津の頭の中で描かれていて、その絵をつなげていくように俳優が動いていくようだ。

かと言って、そのぎこちなさがむしろ小津の脳内をよく投影しているようにも思える(小津の表現したいものがよくわかる、とも言い換えられるか)。
小津の映画の中の人物の動きは、小津の記憶の中にのみ存在しうる形式的な動きで、がゆえに、小津の映画を愉しむことは、小津の脳内を愉しむことに近い。

がゆえに、「小津の映画って金太郎飴みたいなんだよねー」という誰かの言葉は、褒め言葉とも、悪口とも取れるのだ。

家に帰ろう桃が腐っているよ  中村十朗

表題作。なんとも可愛らしい。「家に帰ろう」の理由としての「桃が腐っているよ」。
ただ、この理由が帰宅するための正直な理由とは思えない。本当はひたすら「家に帰」りたいだけかも知れない。
ここで自分は、若者によく見るような自己韜晦癖のある人を想像している。
帰宅のための理由が桃でも何でもよいのなら、「桃」の季語としての働きは如何に、となるが、「家に帰ろう」と思う心こそ秋の趣きではないか、と思えるから、桃の置き方は実はきちんと嵌まっていて、動かすのは案外難しい。


台風の余波なのだろう鯨幕   池田澄子

気象情報では台風一過と言いつつ、風はあまり穏やかでない。
もし、その場に居合わせた人に、「台風の余波」なることを伝えられても、きっと自分は反応に困る。

いつも妙なことを考えている不思議少女は、なぜだか「余波」という言葉を知っていて、鯨幕のはためきを見て、そういうことを考えている。
もちろん、この少女には、喪服の大人達に対する関心はほとんどない。
「ファミリーレストランに連れてってくれる、って約束だし、法事とか早く終わればいいのにな」とか考えている。たぶん。

現代人のもつ無機質なさびしさ。



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