トランペットの唇 青山茂根
羽音にて迎へられたる仏生会
蜘蛛の巣や灯台にまひるまの眠り
野の花を集めしほどの水着かな
水汲みに向かふ青嵐の奥へ
夜光虫琉球の灯に加はりぬ
ひとむらの砂塵を見たり茄子の馬
秋扇にまばゆき街の明かりかな
ドル建ての水をあがなふ星月夜
葬送に婚礼に雁あふぎけり
海までの旅のはじまる紅葉かな
みやこどり東雲は街鈍色に
立冬の深さに猫の歯型かな
しぐれふるまで階に眠りをり
凱旋歌無し雪吊の広場には
クリスマス火口へと道続きけり
葉牡丹や出稼ぎのまま居座りぬ
去年今年橋の上にも声あふれ
福寿草飾りてヒマラヤは遠し
七草粥や羽ばたきの二つ三つ
蹲りたる成人の日の終り
逆光を伴ひ二月礼者らし
埠頭にも満ち旧正の喧噪は
針供養小さき骨を拾ふかに
かはづ鳴く地に定住の始まりぬ
あたたかや楽器の重みくちびるに
舌ざはりにて春風を覚えけり
倒れたる眼にいつも蒲公英よ
アスパラガス旧家の軒の深きこと
誕生仏立つ密林の明るさに
しづまりて夕日の色の甘茶かな
運河へと雀隠れの続きけり
落日のための坂あり白牡丹
いづこともなく舟虫の都かな
物にみな梅雨の重さのありにけり
金彩のかすれしことも羽蟻の夜
砂の城さながらゼリー残りをり
万緑を孔雀は走り続けたる
梅雨茸といふうたかたを踏みてより
息づかひおさへてゐたるあふぎかな
踏切に静けさ満ちて熱帯夜
掌ほどにくぼみし雲海よ
市井まだ動き始めぬ蓮見かな
手花火をかざすや道の現れにけむ
切れぎれの雨の記憶の祭なる
どこまでも都の続く油照
救命具しまへば蝙蝠の空よ
遠雷や地上こまごま混み合ひて
漆喰の白きはまりぬ南風
祭壇とまがふ天草干されあり
うらがへる蝉に明日の天気かな
●
2008-10-26
テキスト版 青山茂根 トランペットの唇
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5 comments:
野の花を集めしほどの水着かな
「ほどの」なのに、野の花を集めて縒りあわせたような水着を思う。かわいらしいような、頼りないような。
ドル建ての水をあがなふ星月夜
異国の雰囲気。「水」に「星月夜」で空間の広がりが生まれる。「あがなふ」という動詞のしなやかさもベストと思える。
立冬の深さに猫の歯型かな
「猫の歯型」の「深さ」を言っているのだろうけれど、語順も作者が選び取ったものだ。「立冬の深さ」という言葉の組み合わせから感じる寒々しさ、猫の歯型をなぞる作者。そこに猫はいるのだろうか?
クリスマス火口へと道続きけり
その道を作者はこれから行くのだろうか?道が続いている、と言っているだけの措辞からすると、作者は行かないような気がする。そこに行けるという認識が大事なのだ。
蹲りたる成人の日の終り
この句が、五十句の中では一番好き。どうしてうずくまるのか、よく分からない。でも何かしらのドラマ性をイメージさせるに十分な言い回しだ。おそらくは、式典に疲れて貧血を起こしたとか、その程度のことなのだろう。でも、その裏には、成人になってしまったことに対する精神的な成長痛、みたいなものがあるような、ないような。
あたたかや楽器の重みくちびるに
楽器を吹くだけなのだが、「重み」という皮膚感覚が好き。
万緑を孔雀は走り続けたる
「続けたる」と、わざと連体形で止めているまどろっこしさ、切れのなさは、孔雀の重さを思わせる。万緑の緑の中をぼてぼて走る孔雀の彩りのイメージは、なかなか強烈。
救命具しまへば蝙蝠の空よ
救命具をしまった、ということは、もう危機が去ったはずなのに、頭上には蝙蝠の空が広がっている。人智をあざ笑うような、不吉な予感。
優夢さま、お読みくださりありがとうございます。それより最終選考に残っておめでとうございます。ぜひ次を目指してくださいね。たぶんさるまるさんか優夢くんが賞取ってくれるから、私は来年はもう出さないことにします。雄介氏もあんなに良いのに、なぜ予選通ってないんですかね。
そうそう、今週の動画、ナイスです!天気さんの選曲はいつもビビッドなんですが、今回「コルネットの唇」ですね。
誕生仏立つ密林の明るさに
誕生仏をエキゾチックに捉えた「密林の明るさ」の措辞によって今にも神秘的な光が射して来るようです。
いづこともなく舟虫の都かな
まさに「いづこともなく」ですね。
群れている舟虫の感じです。
ゴキブリでは「都」と言う訳にはいきません。
掌ほどにくぼみし雲海よ
お釈迦様の掌を思います。
雲海を見ているとお釈迦様の掌の上の孫悟空のような気持ちになるのかも、と。
◆福寿草飾りてヒマラヤは遠し◆誕生仏立つ密林の明るさに◆しづまりて夕日の色の甘茶かな◆金彩のかすれしことも羽蟻の夜◆万緑を孔雀は走り続けたる◆漆喰の白きはまりぬ南風
「遠し」「明るさに」「ことも」とワンクッションを置く措辞によって、念入りな「仮象化」がなされている。間違っても(たとえ取材があったとしても)これらは海外詠ではなく、むしろ異国的イメージが日常に侵入し、多重露光の写真のようになっている。
◆七草粥や羽ばたきの二つ三つ◆物にみな梅雨の重さのありにけり◆切れぎれの雨の記憶の祭なる◆祭壇とまがふ天草干されあり
これらの句で、作者は、言葉に視覚像を結ばせることも、実感を再現させることもせず、「仮象」の立ち上げに、有り金を賭けているように見える。〈切れぎれの雨の記憶の祭なる〉切れ切れの雨と、切れ切れの記憶を通してながめる、祭もまた切れ切れである。音がない。
「どこかに行ってしまう感」があります。
そこに居ながらも、どこかへ、という感じ。
●しぐれふるまで階に眠りをり
●逆光を伴ひ二月礼者らし
●倒れたる眼にいつも蒲公英よ
●掌ほどにくぼみし雲海よ
●切れぎれの雨の記憶の祭なる
●どこまでも都の続く油照
テンションや空気の流れが50句を通して安定。
楽しませていただきました。
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