2009-01-04

〔俳誌を読む〕『俳句界』2009年1月号を読む 山口優夢

〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年1月号 提言シリーズを読む

山口優夢


この、特集「提言シリーズ」は2009年1月号が第一回目で、そのタイトルは「このままでは俳句結社は滅亡する!?」である。副題に目をやると、「若者不在の現代俳句を考える」とある。なるほど、どうやら「このまま」というのは、「若者不在」ということらしい。特集の冒頭に、企画説明と思しき小文が載せられているので、その全文を以下に書き写しておく。

俳句人口の高齢化は急速に進んでいる。どの結社も「若手俳人の育成」を声高に主張しているが、目に見える成果に至っていない。若手育成の課題は結社ばかりではなく、総合誌の大きな役割でもある。小誌は長期に亘り、俳句人口の高齢化、若手俳人の育成の問題を取り上げ、具体的な提言を発信していきたい。

ここまで読んで、まず疑問に思う。この特集は、一体、何が眼目なのだろうか?語りたいのは、結社について?俳句に若者がいないことについて?高齢化が進んでいることについて?

なんだか、最初のページから散漫な印象が拭えないが、その印象は特集を読み進めてゆくにつれてますます深まってゆく。これらの疑問を一つに束ね、議論を深めてゆく記事がなく、それぞれの記事が断片的にこれらのテーマに切り込んでいるだけだからだ。

内容は、坪内稔典、七田谷まりうす、岸本尚毅、佐藤郁良、神野紗希の5氏が見開き2ページの記事を寄せている。ほぼ年齢順に原稿が並べられており(1944年生まれの坪内よりも1940年生まれの七田谷の方があとに並べられているが)、面白いのは、それぞれの評者が、自分の年代のことを中心に話をしているというところだ。

坪内氏、七田谷氏は高齢者の増加している現状を積極的に肯定し、岸本氏は働き盛りの世代がなかなか俳句に時間を避けない現状を嘆き、佐藤氏、神野氏は若手と俳句とのかかわりを論じる。

とすれば、編集部の意図はむしろどういう世代から見てもそれなりに書けるようなテーマを設定し、それぞれの世代の視点から俳壇の状況を描いてもらう、ということなのかもしれない。断片的になることは必ずしも批判すべきことではないのかもしれない。

それにしても、「このままでは俳句結社は滅亡する!?」というのは、まるで、結社が滅亡してはいけないという価値観が先行して付けられたタイトルのように感じるのだが、本当に滅亡してはいけないものだろうか?結社が滅亡することと俳句が滅亡することは別次元の話だ。結社という制度が崩壊したのちに何かしらの新しいシステムが台頭してくるということは想像し得るし、私見では、それは十分可能性のあることだと思う。

そのような可能性の萌芽として、若手が結社離れしてゆく現状を、決して否定的ではなくニュートラルに紹介している神野紗希氏の記事は興味深い。

神野氏の記事では、結社に入らずに高名な俳人と一対一の師弟関係を結んでいる若者、結社や師弟関係と無縁で、全く独立独歩で俳句をやっている若者、それらと対照的に結社に入って研鑽を積んでいる若者が紹介されている。それぞれに現在活躍中の若手俳人である。その「多様化した選択肢」が紹介されている点では、自分自身が若手でもある私の目から見て、今回の記事中で最も若手の現状をよく掴んでいる記事だ。

それでは、現在なぜそのような多様化が生じているのか。

その一因には、俳句への入口の多様化が挙げられるだろう。佐藤郁良氏の記事で言及されているのは、俳句甲子園というディベートと俳句を組み合わせたイベント、神奈川大学などで開催される高校生を対象とした賞の存在などが、若者が俳句を始める際のきっかけとして大きく作用しているという現状だ。

俳句を始めようと思って結社に入るのではなく、他の何かのきっかけで俳句を始めたあとで結社を選ぶ、あるいは、結社を選ばないという道を選ぶ、という若者が増えているために、結社しかなかった時代に比べて多様な選択肢があるのだと言っていい。

また、佐藤氏の記事では、折角俳句を始めても、それを続けられる環境がなくて(ない、ということではなく、本当は、そのような環境を自ら選び取ることができなくて、ということなのだろうが)結局俳句をやめてしまう若者が相当数存在することが語られる。それもまた真実であろう。

俳句を続けられる環境、と言うと現在のところその役割を果たす最も大きなものは結社システムがすぐ頭に浮ぶ。しかし、一度俳句を始めたあとで若者が結社を選ぶということは、たぶん、端で見ているよりもずっと困難を伴うのだ。それは、自由すぎることから来る贅沢な困難ではあるが、それにしても困難は困難だ。

どの結社を選べばいいか、などということは、結局入ってみないと分からない。結社の大きさや評判、主宰の句の好き嫌いや試しに出てみた句会の雰囲気などの手がかりは、所詮断片的で副次的なものでしかない。

有体に言ってしまえば、どこかの結社を選んだからと言ってそれが他の結社を選んだときとどう違うのかがよく分からないのだ。つまり、その結社の魅力というものが分からない、あるいは、伝わってこない、ということが多い。

しかも、一人の主宰をみんなが奉り、その人物を中心にまとまるというのは、なにがしか前近代的な気持ち悪さを覚えないでもない。それよりは、自分一人で世界に対峙し、現代と切り結んでいった方がなんとなくかっこよく見える、という心性も若者の結社離れには含まれているだろう。

魅力が分からなくても何でも、とにかくそれしか道がないというのなら結社に入るが、けれども、わざわざ結社に入らずとも、このメディアの多様化した現代では、俳句を続ける道はある。たとえば、個人でブログを持ち、自作の句や評論を発表する、あるいは、神野氏の記事で触れられていたように誰かに個人的に弟子入りする、そのような形で結社外の若者というのは現に存在し、おそらく増えているのだ。

佐藤氏の「若手俳人の育成に向けて」「環境づくり」をしてゆこうという提言は、完全に指導者の立場からの目線である。この記事でうたわれているような、若者向けの俳句大賞の設定や若手俳人の雑誌での紹介など、戦略的・実際的な面も大いに結構だとは思うが、環境づくりというのならまず、若者にとって魅力のある結社作りということに目を向ける努力も必要だろう。

また、結社の魅力、ということに直結することではないが、若者が俳句を続けやすい環境への言及があるのは岸本尚毅氏の記事だ。

彼は、働き盛りの世代がなかなか句会に出る時間を取ることができないために、俳句に関わる世代が若者と高齢者に分断されていることを問題視している。それでは一人の人が何十年も俳句を続けることができず、長い句歴によって分かるようになる「俳句の本当の面白み」を味わえない、つまり、本当の問題は「働き盛りの世代の長時間労働」だというのである。また、働き盛りの人が句会に出ていれば、若者にとって「叔父叔母、出来れば年の離れた兄姉くらいの俳句仲間」になれるため、若者も句会に出やすいだろう、というわけだ。

これは多分に岸本氏の個人的な俳句観(句歴が長いことを良しとする)をベースにした問題提起であり、必ずしも普遍化できる問題ではないものの、働き盛りの世代がもっと俳句に参入できたら、今の俳句シーンがより活性化することは確かだろう。若者の目から見ると、高齢者だけでなくいろいろな世代のいる句会の方が楽しいに決まっているから、そういう結社は魅力的に映ることであろう。

しかし、それはどこまで現実的な話なのだろうか? 岸本氏自身は自分の努力と、飲み会などを断る「ある程度の不義理」によってそれを達成しているようだが、たとえば結社などがそれを働き盛りの会員に押しつけることは無理だろう。だとすると、これは、結局のところ、俳壇という狭い枠組の構造を変革するのでは如何ともし難い、日本社会全体の構造の問題であり、その解決は今のところ個人レベルに期待するしかないとも言えそうだ。

だったらいっそのこと、坪内稔典氏のように開き直るという手もある。坪内氏は、「若者はいつの時代にも自力で勝手に育つ」と嘯き、それよりもこの未曾有の高齢化社会では、高齢者の方がおもしろい、と言う。若者の不在を嘆くより、高齢者が元気に俳句を出来ることの方に、現代の俳句の中での意義を見出しているようだ。

高齢者はフロンティアである、ということは長谷川櫂氏も言っていて(「加藤楸邨論 楸邨、最後の旅」「12の現代俳人論」所収)、時折耳にする言葉だが、では、一体高齢者が俳句に新しい何をもたらすか、という点についてはいささか判然としないところが大きい。坪内氏は、「今までの体験や知恵、地位などをもとに俳句界を牛耳る」などと冗談めかして書いている他は、高齢者の俳句に対するアドバンテージをせいぜい「時間がぜいたくに使える」ということくらいにしか見出していない。もちろん、それは先ほどの岸本氏の記事と照らし合わせると大きなアドバンテージであることは直ちに了解せられるのではあるが。

七田谷まりうす氏の記事では「老年意識としての俳句」や「老いの華やぎ」を見せる俳句として以下のような句を沢山挙げている。

暖のすけとは熱からぬ懐炉の名 後藤比奈夫
鳥帰るころの北空ならば見る 綾部仁喜

なるほど、実際の作例を見せられると、これが高齢者の俳句か、と納得するところはある。後藤氏の飄々とした句の顔つきは食わせ物の老爺の風情があるし、綾部氏の句には老いて体が利かなくなったことで逆に心の飛翔が生まれているようにも感じる。

しかし、それは本当に高齢者だけに許された境地なのだろうか?青春が必ずしも若者だけのものではないように、老いの境地もまた、高齢者だけのものではないような気がしている。現に、七田谷氏の記事に上がっている高齢俳人の句20句の全てが、高齢者でなければ詠めないという理由はない。しかし、逆に、これらの高齢者の句が他の年代の句よりも劣っているということも微塵も感じることはない。

つまり、俳壇の高齢化は(そういうものがもしも起こっているとすれば)、単なる平均年齢の上昇であり、それ以上でも以下でもないというのが、現在の私の印象だ。俳壇における高齢者の絶対数が増加するという現象から俳句が何かを得ていると考えることがないのと同様、それによって何かを失っているとも考えられない。もう一歩進めれば、そもそも論じるほどの問題ではない、という印象すら覚える。

しかし、それはまだ十分に現在の高齢化社会に照準を合わせた俳句評論が出ていないということを言っているだけであって、力のある批評家が高齢者の俳句あるいは俳句活動をまとめて紹介したならば、また違う傾向が見えてくることもありうるだろう。それが一体何なのか、今の私には思いつきもしないことだが、そこから何かしらのムーヴメントが起こったとしたら、一気に高齢俳人が勢いづいて、それこそ若者の存在感なんて一気に吹き飛んでしまうかもしれない。

数としては圧倒的に多い高齢俳人に負けないためには、若手は上から引っ張ってもらうばかりではなく、自分で自分をアピールしてゆくことが必要だろう。現代はそれができる環境が整った時代でもある。むしろ、そのように個々に活動する若者がムーヴメントの要となり、結社が滅亡させられる時代がやってきたなら、俳句は一つの時代の転換点を迎えることになる。それもまた俳句の未来のためには面白い現象ではないだろうか。


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6 comments:

匿名 さんのコメント...

山口優夢君は、一体、何を言っているのか、さっぱりわからん。頭の悪い俳人にも、わかるような日本語を書いてほしい。

匿名 さんのコメント...

匿名様

山口優夢です。ご指摘ありがとうございます。文章の主旨が伝わらなかったとのこと、私の力不足です。申し訳ありません。

論理に粗いところがあり、全体としてまとまらない印象を与えてしまっているという点は、読み返すと自分でも強く感じます。

結社と若者、という問題は、僕自身にとっても他人事ではなく、これからもいろいろと考えてみたい話題ではあるので、改めて何かの機会に自分のブログなどで書いてみたいと思います。

上記の文章で書こうとしたことは、

・結社における若者不足は結社の魅力不足から起こっている事態ではないか
・俳壇の高齢化が俳句に何か新しいものをもたらすのか、現段階では疑問である

という二点に集約されると思います。あとは、「俳句界」の個々の特集記事をそれぞれ見てゆく形で書いてあります。まとまらない文章になってしまって、すみません。

もちろん、上記二点は若手俳人の一人として俳壇の隅っこから自分の見える範囲の印象を書いたに過ぎないので、多くの反論があるかと思います。また、「結社の魅力」とは何をさして言っているのか、など、詰められていない点が多くあることも承知しております。

このような公にする文章は、できるだけ誠実に書き込んでいかなければならないと考えておりますので、今回のようなご指摘で自分の文章の至らなさを教えていただけると本当にありがたく思います。

願わくば、具体的にどの箇所が論旨不明瞭だったか教えていただきたくも思いますが、「一体、何を言っているのか、さっぱりわからん。」というご指摘であれば、おそらくは全体的によく分からんということなのでしょう。もちろん、そのようなご指摘も貴重なものと考えます。

今後とも至らない点があると思いますが、ご指摘のほどよろしくお願いします。

それと、もしよろしければ「君」づけはやめていただけるとありがたく思います。「君」づけなさりたいのなら、匿名様の名前をお明かしくださいませ。

匿名 さんのコメント...

う~ん。
優夢さんの文章は特に分りにくいとは思わなかったけれど・・・。

むしろかなりストレートな意見のように感じました。

結社に魅力がない、ということは常日頃実感していることなので、そりゃそうだ、と思います。
ただ、若者の側にも問題があるようで、年長者から理不尽に押さえつけられることを避けたい(耐えられない?)ところもあるようです。
実はそうした理不尽さが、いろんな意味で人を強くするのですけどね。

秀彦

匿名 さんのコメント...

五十嵐秀彦様

ありがとうございます。

年長者から理不尽に押さえつけられることを避けたい、ということも、あるいはあるのかもしれません。

結社に入っていない若者からすると、何をどの程度押さえつけられるものなのかも実はよく分からないところがあるのですが。。

匿名 さんのコメント...

>理不尽さが、いろんな意味で人を強くする

これは実社会で学ぶことではないかという気がします。結社はそんなところなのでしょうか。個人的には結社に入らなくても俳句をやれる環境があるのなら、入る必要はないと思います。
ただ、結社に入らずに俳句が出来るというのは、かなり恵まれた環境だという気もしますが。
俳句が「まずは雑巾がけから。」、「この技をものにするには最低十年かかる。」という類のものだとしたら若い世代には魅力的に映らないのではないでしょうか。

匿名 さんのコメント...

>数としては圧倒的に多い高齢俳人に負けないためには、若手は上から引っ張ってもらうばかりではなく、自分で自分をアピールしてゆくことが必要だろう。

われわれは残念ながら薄っぺらい。自分に合ったアピールの仕方を考えていきましょう。

参考:B.U.819的ジヒョー![俳人の深さ編]