毎週日曜日更新のウェブマガジン。俳句にまつわる諸々の事柄。photo by Tenki SAIBARA
今の時代、動画はどこにでもあるのですが、動くものを静止させてしまう写生画や写真もあって、それはそれで価値ある映像を提供してくれています。 しかし、動画なき時代に子規は、短歌は時間、俳句は写生、というようなことをいっていました。そのせいかどうか、俳人の皆さんは多くの場合、何でも静止画にして認識する傾向にあり、動画的認識が苦手で、静止画=「瞬間」ではない動画的時間を、俳句に取り込むのが苦手ではないか、と思います。そう思いつつ、次の句 耕してゐるうしろ側月通る を拝読しました。「月通る」が凄い、まず。 月は動きます。そのことを私たちは知っています。しかし、月が動いていることを、私たちの視覚はとらえることができません。月は私たちの視覚では、常に静止画です。テレビ画像でそれを見ても、よほどのコマ落としにしなければ、月の動く姿を眼で見ることはできません。だから、「月通る」は、眼に映る「瞬間」という静止画ではなく、眼には映らない「時間」というというものの動きを、視覚化することに成功していると思えます。 だから、「耕してゐる」も動画ですが、「月通る」がとりわけすごい。 また、季語の取り扱い、「耕す」は春、「月」は秋の季語です。ただ、「月」は「通る」ほどのすごい動きのある「月」ですので、秋の月とするわけにはいかず、春と秋を跨いで「通る」月、つまりは無季化された月なのでしょう。季語は眼の前の「空間」に属します、しかし、無季化は、その視覚的空間から超脱し、「時間」をほしいままにし、動画化します。そこで、「月」は、「光陰如箭」の「光陰」の象徴であるかと思います。 耕してゐる(人の)うしろ側月通る と読むべきか 耕してゐる(私の)うしろ側月通る と読むべきか 私は、「私の」と読むのがよいと思います。「月通る」は眼ではなく、脳によって認識されるものだからです。 撫でてをるのは春水のおもてがは この句は、春水の裏側への意識が働きます。春水の「おもてがは」は、きらきらと写真のようでもありますが、裏側では、滔滔と時光流逝。俳人は多くの場合、春水の「おもてがは」をそれとは知らずに撫で、写生するだけですが、この句は「おもてがは」とあるので、句の主眼は「裏側」=時間であるのでしょう。写生的認識が捕らえる「空間」の裏側にある「時間」が頭に浮びます。 山頂の落ちさうな岩春立ちぬ 「落ちさう」つまりは「落ちない」=停止。動きを止めている力と春立つという動く力。そのふたつのベクトルが働いて、動こうとする力がこもります。 胸中の水は沸かずも梅開く 「沸かず」と「開く」の対比で、「開く」という「動き」が、静止画ではなく描かれている感じがします。 玉句拝読し、感服しました。しかし、 靴下の匂ひと思ふ春の泥 に触れることができず、すみません。
獅子鮟鱇さま長い感想を頂き、感激しております。有難うございました。
コメントを投稿
2 comments:
今の時代、動画はどこにでもあるのですが、動くものを静止させてしまう写生画や写真もあって、それはそれで価値ある映像を提供してくれています。
しかし、動画なき時代に子規は、短歌は時間、俳句は写生、というようなことをいっていました。そのせいかどうか、俳人の皆さんは多くの場合、何でも静止画にして認識する傾向にあり、動画的認識が苦手で、静止画=「瞬間」ではない動画的時間を、俳句に取り込むのが苦手ではないか、と思います。そう思いつつ、次の句
耕してゐるうしろ側月通る
を拝読しました。「月通る」が凄い、まず。
月は動きます。そのことを私たちは知っています。しかし、月が動いていることを、私たちの視覚はとらえることができません。月は私たちの視覚では、常に静止画です。テレビ画像でそれを見ても、よほどのコマ落としにしなければ、月の動く姿を眼で見ることはできません。だから、「月通る」は、眼に映る「瞬間」という静止画ではなく、眼には映らない「時間」というというものの動きを、視覚化することに成功していると思えます。
だから、「耕してゐる」も動画ですが、「月通る」がとりわけすごい。
また、季語の取り扱い、「耕す」は春、「月」は秋の季語です。ただ、「月」は「通る」ほどのすごい動きのある「月」ですので、秋の月とするわけにはいかず、春と秋を跨いで「通る」月、つまりは無季化された月なのでしょう。季語は眼の前の「空間」に属します、しかし、無季化は、その視覚的空間から超脱し、「時間」をほしいままにし、動画化します。そこで、「月」は、「光陰如箭」の「光陰」の象徴であるかと思います。
耕してゐる(人の)うしろ側月通る と読むべきか
耕してゐる(私の)うしろ側月通る と読むべきか
私は、「私の」と読むのがよいと思います。「月通る」は眼ではなく、脳によって認識されるものだからです。
撫でてをるのは春水のおもてがは
この句は、春水の裏側への意識が働きます。春水の「おもてがは」は、きらきらと写真のようでもありますが、裏側では、滔滔と時光流逝。俳人は多くの場合、春水の「おもてがは」をそれとは知らずに撫で、写生するだけですが、この句は「おもてがは」とあるので、句の主眼は「裏側」=時間であるのでしょう。写生的認識が捕らえる「空間」の裏側にある「時間」が頭に浮びます。
山頂の落ちさうな岩春立ちぬ
「落ちさう」つまりは「落ちない」=停止。動きを止めている力と春立つという動く力。そのふたつのベクトルが働いて、動こうとする力がこもります。
胸中の水は沸かずも梅開く
「沸かず」と「開く」の対比で、「開く」という「動き」が、静止画ではなく描かれている感じがします。
玉句拝読し、感服しました。しかし、
靴下の匂ひと思ふ春の泥
に触れることができず、すみません。
獅子鮟鱇さま
長い感想を頂き、感激しております。
有難うございました。
コメントを投稿