対談 俳人たちに明日はない
黒幕×佐藤文香
私 おはようございます。本日は俳句についてご意見を伺いたいのですが。
黒幕 俳句は嫌いじゃないけど、今俳句やってる奴は嫌い。句会だって意味ねーじゃん。自分の句がいいかどうかぐらい自分で判断しろっつーの。俳句以外に友達いない奴が集まって喜んでるだけじゃねーの? お前の句集だって面白くねー句ばっかだし。それぐらい3ヶ月もあれば俺だってできるだろ。
私 …たしかに、藤田湘子という俳人が「20週俳句入門(立風書房)」という本を出しているくらいですから、黒幕様なら3日もあればマスターなさると思われます。基本的な型を覚え、あとは歳時記があればできますから…
黒幕 その時点で俳句は終わってるよ、ばーか。歳時記持って見ながら作って恥ずかしくねーの?
私 …たしかに、三橋敏雄という俳人が、何だったかに「これからは無季の俳句に可能性がある」というようなことを書いていました。
黒幕 へー。いいこと言うね、三橋敏雄。わかってるじゃん。
だから俳句はふたつに分かれちゃうべきだよ。ひとつは伝統を守るタイプ。昔から美しいと言われてるものを美しく詠むってのはあっていいと思うよ。お稽古として。芭蕉とか一茶とか、教科書に載せたらいいんだし。
私 とすればもうひとつは表現でしょうか。
黒幕 でも俳句は「575」で「季語」だろ?それ守ってたら表現になるはずねーよ。表現ってのはいつの時代も型を壊すとこから始めるのが普通じゃね?前衛とか表現とか言ってるやつらも、いま俳句作ってる時点で結局は保守だよ。
私 では例えば、もうふたりとも生きていませんが、永田耕衣という俳人の「泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む」とか、富沢赤黄男という俳人の「草二本だけ生えてゐる 時間」という句はいかがですか。
黒幕 そういうのはいいと思うよ。だってその面白さは俳句特別ってわけじゃないじゃん。別に難しい言葉使ってないしさ、季語どうこう考えなくていいだろ?なんでそれが一つの道筋にならないんだろうね。せっかく小説には書けないようなことだって、短い言葉で言えるのに。別に主流は伝統派でもいいけどさ。そういえばL25とかにエッセイ書いてる人、あれ歌人だろ?
私 穂村弘さんですね。去年はスターバックスでも短歌を募集して、その中のいい作品を紹介するエッセイを連載を穂村さんが担当していました(「スターバックス 三十一文字解析」)。
黒幕 まぁ、それほどの作品とか作家がやっぱり出てないってことだろ。俳人はみんな陰気だもんな。どんなにいい句があっても、それを俳句の外に押し出そうとしない。
私 さきほどの三橋敏雄という俳人ですが、弟子である池田澄子に対して、「君が二十歳なら、売り出すんだけどなー」(週刊俳句第67号の池田澄子インタビューより)と言ったそうです。
黒幕 なるほど。池田澄子が第一句集出したときハタチだったら、俳句はもうちょっとどうにかなってたかもしんねーな。
私 澄子さんがあと30歳若かったら……残念です。
黒幕 ばっかじゃねーの?それをお前がやるんだっつーの。お前澄子さんの弟子だって言ってなかったっけ。しかも年女ってことはまだ36だろ?
私 はい、年女ですが……まだ今年で24です。
黒幕 それでその顔はやべーな(笑)でもまぁそろそろ俺ナシでもやってけるだろ? B.U.819。この1年でだいぶ鍛えたから。お前は馬鹿でブスだけど、耐久力だけは抜群だ。お前ならやれる。
私 はい、がんばります。本日はどうもありがとうございました。
(2009年1月11日)
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2009-02-01
対談 俳人たちに明日はない 黒幕×佐藤文香
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4 comments:
小生、「本日は俳句について」を「日本の俳句について」と読んでしまいました。そこで、
座談会に呼ばれてはいませんが、お邪魔します。
まず黒幕氏の言葉にあった「前衛」。芭蕉は「不易流行」といいましたが、それを「不易」と「流行」とに両断して「前衛」と「伝統」に読み替えたのが、昭和の戦後の俳句だったかと。「前衛」を説く人がいたから「伝統」を説く人が出てきて・・・いずれにしても、俳句における「前衛」は、日本に固有のローカルな話ではないでしょうか、グローバルに見れば、ですが・・・。
俳句は今や日本のものだけではなく、世界の多くの国に読者がおり、俳句詩人(haijin)もたくさんいます。Googleの英語検索にも、俳句関連の多くの記事があります。
basho haiku 239000件
issa haiku 127000
buson haiku 45300
shiki haiku 77900
santoka haiku 6900
kyoshi haiku 6500
tota haiku 14600
shugyo haiku 500
teiko haiku 1000
そこで、小生は、俳句を、グルーバルな視点で見ることにしています。俳句がなぜ海外に広まったのか、海外の読者は、日本の俳句に何を見つけているのか、ということを考えます。前衛vs伝統よりも、日本vs世界の方が面白い。
日本人の多くは、小学校あたりで575と季語が俳句、と学びます。そして、芭蕉を読んでも一茶を読んでも、その575と季語に眼がいき、定年退職後や子育て後に俳句を始めると、俳句人口1000万の過半の人は、575と季語を命にしてしまいます。定年退職後―しかし、私を含め全共闘以後の世代が、575と季語に素直に頷くとは到底思えませんが・・・
それはともかく、俳句人口1000万の底辺を支えてきたこれまで老人たちは、575と季語は、俳句の作者になる絶対要件なのか、俳句の読者に求められる絶対要件なのか、それともその両者にとっての絶対要件なのか、さらには、575と季語は、俳句の目的であるのか、それとも手段であり方法であるのか、そういうことを抜きに俳人になってきたようです、日本では。
しかし、海外の俳人は、その多くが詩人です。そして、芭蕉を575では読まず、山頭火を575では読みません。多くは英語で、また、英語から母国語への重訳で俳句を読み、母国語か英語で俳句を作るからです。英語で、また、英語から母国語への重訳で俳句を読み、それにインスピレーションを得て、自らもhaikuを作る。
Haiku。日本のこれまでの俳人の多くは、それらを日本語に翻訳したものを読み、これは俳句じゃない、というようです。また、それをいう人らは、無季や自由律も、俳句じゃない、という。
同じように芭蕉を読み、蕪村を読んでも、日本の1000万の俳人の多くが見つけるものと、世界各国のhaijinが見つけるものに、けっこう違いがありそうです。日本人でも俳人にならない人間はたくさんいますから、俳句に何を見つけるかで、日本人・外人ということにあまり意味はないのですが、日本では、俳句には詩とは異なるものがあるということをみつけ、海外では、俳句にはこれからの詩の可能性があるということを見つける、という読句傾向にあると思います。そこで、
1 俳句が海外で広くひろまったのは、俳句には、「翻訳可能」な詩の力があるからだ。
2 その詩の力が、芭蕉には、あったのだ。
3 その詩の力は、575でも季語でもない。
という3点―これを押さえておかなければ、黒船のように日本を取り囲むことになるだろうhaijinたちに、実作や俳論で、まともに太刀打ちできなくなるでしょう。ペルリは、日本語を知らずとも、幕府に国を開かせましたから。
俳論でまともに太刀打ちできない:たとえば「写生」。子規が生きていた頃は、絵画の最先端の画法で、江戸の「浮世絵」などの対極として、棄旧立新であったでしょう。でも、まさにそのころ、西欧は、日本から俳句と「浮世絵」を輸入していたのです。「浮世絵」は、「写実主義」を駆逐することになる「印象派」に影響を与え、絵画はさらに、キュービズムやシュールレアリズムへと進みました。この間、わが国の俳句が、俳句人口1000万のレベルではありますが、今もなお「写生」を引きずっているらしいことに、嗚乎。とはいえ、これからは「印象派」だと旗を立ててみても、何をいまさら、であるでしょうね。
ネット上で見る限りでは、文香さん自身は、ぶさいくというにはあまりにも特徴のない顔立ちをしている。化粧すれば十分に美人であろう。文香さんがぶさいくを選ばなければいけなかったのは何故か。アイドル扱いされてはたまらないからだろう。アイドル俳人は作品の質を問われず、俳句の外に俳句の楽しさをアピールすることだけを求められる。客寄せパンダ? なめてもらっちゃ困るぜ、あたしは本気だ。貴様らに消費されてたまるか。この老いぼれどもが。首を洗って待ってろ。息の根を止めてやる。地獄を見せてやる。煉獄の業火で鼻っ柱あぶった上でAEDぶちかまして蘇生してやる! 楽にさせてなるものか! 跪け薄汚い豚ども────!!!!! ビシッ! バシッ!
と、後ろの方はちょっと私の趣味が入ってしまったが、文香さんは本気だ。恐ろしい。恐ろしいのでおとなしく支持を表明した。
ちなみに私は俳句を全然愛していない。
しかし文香さんのことは「文香ちゃんに嫌われたくない!」と叫びながらペンタブレットを走らせるぐらいには好きだ。
特集号が終わってから今更感のあるコメントですいません。
姐さん、俳句のまわりをささらもさらにしてつかいや!!!
獅子鮟鱇様
日本vs世界の視点、大変重要と思います。とくに、<定型>と<季語>以外に、俳句の核となるものがあるというのは、確かなことだと思います。
「俳句空間 豈weekly」の中村安伸さんのあとがきにもありますように、オーストラリアの詩のウェブマガジンコルダイトにおいて、9日より俳句特集が掲載されます。
私は外国語が大の苦手なので、俳句を自ら英訳することができないのが悔やまれます。
石原ユキオ様
たしかに、顔幅が広すぎることとえらが張っていることと口のしわが濃いのと鼻の穴が少し前をむいているのと口のまわりの産毛がひげレベルに濃いことを除けば、私の顔は「ど」のつく「ブス」ではないような気がします。「かわいい子は損だ」と常々思ってきたので、自分が得になるようにしているのだと思います。
むしろ客寄せパンダの頭をかぶって、俳句を作って新宿を配り歩くぐらいできればいいんですけど。
私がすげー俳句を作ったり俳句のすごさをまきちらしたりするためには、俳句を愛する人の力と、私を愛する人の力が必要です。我に力を!!
佐藤文香様
こんばんは。
>私は外国語が大の苦手なので、俳句を自ら英訳することができないのが悔やまれます。
私も外国語は苦手です。でも、俳句ほどに短い詩であれば、留学生か何かで日本語がわかり、佐藤文香の俳句に共鳴する外国語ネイティブが居ればよいことです。
俳人のみなさんは、「てにをは」の推敲で言語能力が麻痺してしまったようなところがあり、どちらでもよいことの詮索に走り、外国語俳句の鑑賞能力が衰えているようです。だから外国語俳句を語れない。
しかし、多くの外国語には、「てにをは」はないのです。そこで、俳句の翻訳は、恐るるに足らず。
>俳句の核となるものがあるというのは、確かなことだ
その核があるから世界の詩人が俳句に共鳴し、俳句を支持しているのです。
俳句ほどに短い詩。それを100%自分ひとりで作ったと言っていいものかどうか。俳句の詩神にとっては、佳句はだれが作ろうと、またひとりで作ろうとふたりで作ろうと、佳句さえ生まれればそれでよいのでは。
逆説をいえば、俳句は個人の句誉を得んがための文芸ではなく、佳句を世界中で共有できるというところに、その生命があるのではないでしょうか。日本のコミックまた然り。
しかし、著名な俳人には、いい句を作ってそれが世に認められることを句作の目的とし、世の支持を得んがために、説かなくてもよい「俳句の伝統」を説き、それにすり寄る人がいると私には思えます。「伝統」を説けば、仲間や弟子に対し、学を誇れ、偉くなれるからです。日本はそういう国です。しかし、芭蕉は自分の名を後世に残すことを図ったのかどうか。
佳句を作るため、残すための共同作業をもっと視野に入れてもよいのではないでしょうか。
私が日本の俳人のなかでもっとも興味を抱いている夏石番矢に
ヒロシマという語/蝶より/重からんや
という句があります。この句は、世界の詩人たちによって、二十数か国の言語に翻訳されています。世界を股にかけた共同作業です。これを私は日本の俳句、二十一世紀の俳句にとってとても大きな事件だと思っているのですが、日本の著名な俳人たちは、まだそのことを知らないようです。
なぜか。俳句はひとりで作るものであり、そうすることによって、自分の句誉を世に問う手段だと思っているからです。
まだ若いみなさんは、そういう一人俳句ばかりでなく、ぜひ色んなことに首を突っ込んでください。江戸の俳人たちがそうしていたように。
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