猫髭 十句の封印による反祝婚歌
一枚の銅版画一月の夜
エヴァよ 君がゆがんだ建築の隅で羞恥をわかちあつてゐた頃 俺たち無頼の徒は 鋪道の雑踏に影を踏まれながら マンホールから火を取り出して口に含んでは お互ひの目のなかをのぞきこんでゐた 俺たちはそこに燃える埋み火が 受けいれるべきものか 拒むべきものか 判然としなかつたのだ エヴァよ 君にしてみれば 君の決して多いとはいへない仲間が ひたすら動物の悲哀と跳梁を深めるばかりなのに 優しさの捨て場を探しあぐんだことだらう
雪明り薊の綿毛おもふまで
獸偏つけて枯野を戻り来る
エヴァよ 俺たちは団欒を遠く離れて あの石の部屋へもどらなければならないのだが そこではカップがひとつ欠けてゐることすら暗黙のアリバイとして秘密をちらつかせる 静物たちにしてみれば 少しは自分たちの声を気づかせたかつたのかもしれない 俺たちはすべてを認めてやつた それが俺たちの不在の証明だ エヴァよ 君の優しさはすでに遠い けれども 君は知つてゐるだらうか 俺たちからは遠い君の優しさにしても それは君自身からもほど遠いことを
冬薔薇のコップの中のいのちかな
鳥凍てゝ静物となる水の窓
エヴァよ 俺たちのファンタジアを聞け 出口のない石壁ばかりの街にも空は広がるのだ 翔ぶ鳥は祈りにも似て 一月の子どもたちの小さな珪石で描かれた無数の輪 ときには絵摸様のなかに墜ちてくる 薄暮のおびたゞしい死に 透きとほつた君の肌は青い血をめぐらすだらう 俺たちはそんな君を植物に分類する 嗚呼 君の額にむごい夜はどんな夢を刻むのか けれどもエヴァよ 悔恨を知らない君の瞳が どれだけひそかに俺たちを傷つけたことか 君もまた傷つけ それはつひに言葉にならなかつた俺たちの願ひでもある
褪紅(あらぞめ)のこゑとなりゆく寒烏
軟骨の冷えゆく耳や春浅し
エヴァよ 君と君の優しさを拒むことのできるひとのために 卓上には冷たく青き背鰭の魚が調へられ それはおだやかなふれあひの合図として闇にそばだち 君の食慾をそのうへにかゞみこませんことを
沫雪(あわゆき)やオリーブの実の薫り立つ
青天の底よりミモザ花雫
エヴァよ 俺たちには気になるのだ 君らが旅立つた朝 ひとけのない街路の向うからあらはれたまゝ 一向にちかづいてはこない巨大な影の主が そのときKはひとりの少女が輪回しをしながら街角をぬけてゐつたといふ さういはれてみれば 俺たちもまたからからといふ輪の響きと 甲高い笑ひ声を聴いたやうな気もするのだ
一の橋二の橋歌橋花の橋
●
2009-03-01
10句テキスト 猫髭 十句の封印による反祝婚歌
登録:
コメントの投稿 (Atom)
1 comments:
猫髭様
獅子鮟鱇です。
俳句をどう作るかではなく、どう使うかという点で示唆とインスピレーションに富んだ玉作、胸躍る思いで拝読しました。俳諧と漢詩の融合では、蕪村に「春風馬堤曲」がありますが、猫髭さんは、俳句の詩法を使い、現代詩の詩法を使い、その効果的な融合によって詩の複層化、立体化に成功していると思います。
「彩鳳随鴉」という成語があって、淑女が才能や容貌のどこがよいかという男に嫁ぐことを言いますが、玉作の「エヴァ」はきっと、「俺たち」にとっての「彩鳳」で、随うのが「鴉」であるかどうかはともかく、結婚という名の別宴を経て、「俺たち」のもとから去っていくのでしょう。その別宴を「俺たち」は、口では言祝ぎながら腹誹心謗、心中のやるせない思いは封印する、ということでしょうか。祝宴では、腹誹心謗は封印をして、心の中に留めておかなければならない。
「俺たち」とは、鼠、猫、犬、あるいは自らの内なる獣性を感知できる詩的叡智であるのか・・・私はそのように読みました。
その詩的叡智あるいは霊的な詩魂は、どうすれば「封印」できるのか。その「封印」に俳句を使ったところに、猫髭さんの詩の新しさがあって、小生、考えさせられました。
詩言志、詩は心を「言い」ます。そこで、封印する=「言わない」ということは、とても難しい。詩を封印するには、詩の全体を( )に入れて不言とする形式が必要です。猫髭さんは、俳句を不言に限りなく近い( )として詠むことで、詩を封印する、ということを詩にすることに、成功されていると思います。
そして、俳句のそのような詠み方は、子規が「発句→俳句」として以来、ひろく信仰されている俳句の作品としての独立性について、一考を促すものではないか、と思います。猫髭さんの俳句は、一篇の詩の部品として機能し、しかも詩全体の押韻部であるかのような詩法のもとで、実に効果的に機能しているからです。
「発句→俳句」によって、俳諧連歌や仮名詩や蕪村の『春風馬堤曲』を生み出してきた俳諧は、発句を一個の部品に過ぎぬものとしていた広い可能性を等閑にし、俳人は発句だけを詠み、読者も五七五だけを読まされる、という狭い文芸に変貌させられていると思います。「発句→俳句」によって、発句は俳諧の一部であった、ということが忘れられ、発句だけを江戸に遡る俳諧の真正の「伝統」とするかのような錯覚も、生まれているように思います。一部を拾って他を捨てる、丁髷を残して洋装をする、それが何の伝統か、と思います。
俳諧の精神に立ちかえれば、詩的可能性のあることには何でも首をつっこむのが俳諧であり、使えそうなものは何でも使う、それが俳諧であったと思います。そこで、江戸の伝統に立ち返る俳諧精神に照らせば、俳句と現代詩には、その両者の融合を阻む境界はありません。
発句には、それだけで十分に成立する句があったことも確かですが、俳諧連歌の発句としてしか機能しない句もありました。しかし、われわれ現代の読者は、それらをなべて一緒にして、五七五で作られたものはすべて独立句でなければならない、という読句態度で臨みます。そこで、どの句がよくてどの句がヘボだ、というような読み方しかできなくなっています。
桑原武夫の「第ニ芸術」論にしても、俳句の作品としての独立性ばかりが前提となっていると思います。「第ニ芸術」論は、小生には大家の駄句ばかりを集めて論を展開していると思いますが、発句は五七五だけで十分に成立するものばかりではない、ということを十分に認識していれば、発句→俳句とした子規の俳句観に対する批判として展開されたかも、と思います。桑原武夫の「第ニ芸術」論は、発句ではなく俳句を論じ、俳諧ではなく俳句を論じているからです。大家の駄句は、独立した作品である俳句、ということだけを踏まえれば、ただちに捨てるべきですが、俳諧の中での発句の非独立的面を見るなら、大家という一個の生きた芸術作品を味読するうえでの詩の一部になりうるかも、などとも思います。俳人を一個の生きた芸術作品と見ることには、もちろん異論百出であるだろうとは思いますが、芭蕉がどうであるとか、一茶がどうであるとかを語るときは、駄句などのイレギューラーな句の存在が、俳人としての全体像を引き立たせることがありそうです。
などなどこもごも、猫髭さんの、インスピレーションに富んだ詩の構えが、亡んでしまった俳諧の精神を今日の世に蘇らせる佳作に思え、胸躍る思いに駆られました。
乱文、意が尽くせず、ご容赦ください。
コメントを投稿