とっさの三行詩 野口 裕
一●
情報の畑からちょいちょいとつまんで
朝のサラダ
身体が冷える
二●
丸いクロワッサンがあり 女陰だという
軍港で見かけた黒いΔにくらべれば
たしかに
三●
珈琲にトラップされて
ショーウィンドウの中にいる
私は売り物である
四●
ジャズピアノ
何をアレンジしたかはわからない
時を均してくれてありがとう
五●
面接試験官が
一分間で自己PRをと
ジュピターと呼ばれる砂時計をひっくり返した
六●
網棚とは言うが 六本のパイプ
径は二・五四センチ
風葬は分かるが磔刑はよくわからない
七●
坊主の警策をぶん取って
思いきりぶちのめしたいのに
団子に液体をかけてどうする!
八●
いわゆるフェーズシフトというやつでしょう
団地の星々が氷っています
胎児? さあ…
九●
ごちそうさまでした、という頃あいか
小骨を卓に植え付けて
デボン紀までの双六はできあがった
十●
枯葉に穴の
2πrから立ち昇る香り
昨日ジョウビタキは崖を追われた
十一●
しんねりと夜の光を紡ぎ
あのレジはアルバイト
そこに韓国海苔をさし出す
十二●
それらの柱は貼りぼてだった
時代を支えてきた屋根が
空虚に支えられている、とは知った
十三●
十段十五列早暁の窓の一角に灯がつく
闇からヒトを運んだ車は
地下で羽根のブラシを受ける
十四●
どうもスパイがいるようだ
丸めた紙に声を飛ばし
「雪は詩にならない」
十五●
冬から春へ向かう途上の
重力の逆転する日を
忘れてしまった
十六●
傾いた糊の瓶を元に戻せば傾いた水平面
● ● ○ ● ○ ○ ○ ○ ●
じっくり待つ母をよそに、瓶を振り回したがっている上目づかい
十七●
書き出しに困りひとつと入れ
書き終わってひとつを消す
辞書の序文ができあがった
十八●
じーんと星の連なるまなうらをめざしねぐらへ急ぐ
手に手にカップ麺を持った人の群はなおさら急いでいる
あの頃の、あるいは今の、あるいは未来の心細さに似て
十九●
玉葱の皮むくように外炎をはぎ取れば
錬金術と錬丹術の
論争美しくもの悲しく
二十●
周期律表のポーカー
死期間近き犬神博士はしきりとマンハッタン計画を思う
終わりが遠うございます
二十一●
運河の材木がコンビニを透かして目の端に
旋回して視線上げれば大工場の社旗
あの会社のCMソングはどんなだった?
二十二●
耳掻きに耳垢
薔薇に見えなくもない
ナニゴトノ不思議ナケレド
二十三●
箸四本の国からビデオが送られてきた
四本箸の使い方を見ると三本は添え物だと分かる
持ち上げた水の波紋から 蝶と蝿
二十四●
Aの喉からBの鼓膜へ糸電話
Bの舌からAの耳朶へ糸電話
糸二本が作るメビウスの輪
二十五●
水の中に点線で円を描くと
外の水は内の水をささえつつ
しかしはたして点線の両側を行き来しつつ
二十六●
空虚と緑が綾なす森
をくぐり抜けるように
海上の泡塊は水に消え行く
二十七●
もくもくと黒い煙を上げる悪漢小説
駐車場に淡くなった白線
合わない年譜を掌に並べる
二十八●
因果律は結局閉じているのだと
二十メートルを滑落中のおまえよ
まだわからんぞ
二十九●
花が舞い鴎飛び工場に赤い徽章
そこここに散るはずの苔の胞子よ
雨待つ恋の雌伏のとき
三十●
垂直軸を嫌う車輪の誕生は
重力との抗争に旋回という美しい曲線を生む
地球の歴史はそこで変わったが なんぎやなあ
●
2009-04-19
3行詩作品テキスト 野口裕 とっさの三行詩
登録:
コメントの投稿 (Atom)
3 comments:
野口様
漢詩人鮟鱇です。
玉作、漢俳を作る者として大変興味深く拝読しました。
一連の詩作品を拝読するうえで、野口さんが俳人であるのか、詩人であるのか、というような先入観や詮索は、味読を濁らせるだけなのですが、「週刊俳句」という場での三行詩の拝読でもあり、俳人は三行詩をどう作るのか、ということに関心を持ちつつ拝読しました。海外のHaijinのHaikuは、その多くが三行詩の形で作られています。私がやっています漢俳も三行表記が普通です。しかし、Haijinの意識は、Haikuを三行詩とどう区別しているのか。つまりは、単なる三行詩でなく、Haikuであるといえる三行詩にするには、詩法のうえでどのような工夫がされているのか、ということに小生は関心があります。
小生は玉作を、そういう視点から、拝読しました。拝読、とはいえ、玉作を読解し散文に翻訳する「読」ではなく、漢文を読む場合と同様の、句読です。
以下、玉作にない「、」と「。」は、小生の句読として、ご容赦ください。
一●
情報の畑からちょいちょいとつまんで、
朝のサラダ。
身体が冷える。
「、」「。」を付けると、その詩の「句」と「章」が、漢詩的理解ですが、わかります。
この作は、第一句(行)と第二句で一章をなし、三句は一句で一章をなしている、と漢詩的には読みます。
十三●
十段十五列早暁の窓の一角に灯がつく。
闇からヒトを運んだ車は、
地下で羽根のブラシを受ける。
この作は、第一句で一句一章。第二句と第三句のニ句で一章。
五●
面接試験官が、
一分間で自己PRをと、
ジュピターと呼ばれる砂時計をひっくり返した。
この作は、三句で一章。
二●
丸いクロワッサンがあり、女陰だという。
軍港で見かけた黒いΔにくらべれば、
たしかに。
この作は、第一句が句中に句ありで、二句一章。第二句と第三句のニ句で一章。
起承のニ句で一章、転結のニ句で一章とする絶句の組み立てと似ています。
三十●
垂直軸を嫌う車輪の誕生は、
重力との抗争に旋回という美しい曲線を生む。
地球の歴史はそこで変わったが、なんぎやなあ。
この作は、第一句と第ニ句で二句一章。第三句が句中に句ありでニ句で一章。
この作も、絶句の起承転結の組み立てと似ています。
十六●
傾いた糊の瓶を元に戻せば傾いた水平面。
● ● ○ ● ○ ○ ○ ○ ●。
じっくり待つ母をよそに、瓶を振り回したがっている上目づかい。
この作は、各句一章。三句三章でしょうか。
余計なことですが、第ニ句の○●は、漢詩の詩譜、詞譜、曲譜でも記号として使います。●は仄声で短く、○は平声で平たく長く発声します。玉作、漢詩人としては、七言の律句○○●●○○●=長長短短・長長短、あるいは、○○●●●○○=長長短短・短長長 にしていただくと、漢詩的意味が生まれたのに、と思います。その場合、
○○●●○○●であれば、第三句とで二句一章。
○○●●●○○であれば、第一句とで二句一章。
第三句が、句中に切れがありますので、第一句と第二句とで二句一章、第三句が句中に句ありでニ句で一章。とすれば、ほとんど七言絶句です。
第ニ句、○●が全九個。あるいは、古典ギリシャ抒情詩かなにかの韻律なのでしょうか。
さて、以上6パターンのうち、一●の二句一章/一句一章のパターンがいちばん多く、半数を超えていますね。そして、俳句を読んだ後の感じ(漠としていて、すみません)にいちばん近いように思います。
そして、句読の長短でみる場合に、長章のあとの短章、長句のあとの短句で終わるのが、俳句的叙法なのか、と思えます。俳句には俳句の、歌には歌の、絶句には絶句の「詠み癖」があるとすれば、最後は短く、というのが俳句の「詠み癖」なのかと。
絶句と似ているとした四句仕立ての二●、三十●も、最後の句は短いですね。
そこで、私が作っています漢俳の五七五も、五/七・五と作って一句一章・二句一章とするよりは、五・七/五とした方が、俳句の叙法に近いかと思います。しかし、五言句や七言句は、絶句・律詩の叙法を引きずっており、五・七/五はなかなかむずかしい。五/七・五に作って、詩として不十分だ、ということにはなりませんので、ますます難しい、詩として十分なら、何もわざわざ俳句にしなければならない、ということもないので、難しいのです。
そこで、絶句と境目のない漢俳がたくさん作られる、ということになります。これ、絶句の起承を上五に配し、転を中七、結を下五に配す、そういう漢俳作りになりますが、絶句の起を上五に配し、承を中七、転結を下五に配するよりは、作りやすい。
以上、三行詩と俳句の比較で多いに考えさせられ、大変、勉強になりました。感謝します。
長くなり失礼しました。
獅子鮟鱇 様
コメントありがとうございます。漢俳を下敷きにしつつの議論、私にとっても大いに参考になりました。
私が母語としている日本語の定音数律短詩、川柳・俳句・短歌(残念ながら都々逸やいわゆる雑俳などは、あまり作ったことがありません)では、音数律を整えるために言葉を刈り込む作業がしばしば生じます。その作業が日常化してしまうと、作り手の言葉の選択が影響されてしまいます。この影響は、無意識に生じるためになかなか認識しにくいところがあるように思います。
私が、「とっさの三行詩」を書こうとした動機の中には、五七五、五七五七七でない短詩が私の内部に生じえるか、という問題がありました。これが音数律を意識せずに書くという試みに行き着くことになります。また、一行に音数律を持ち込まず一行として成立させようとすると、一行が比較的に長くなる、というようなことは見通していました。
しかし、鮟鱇様の一句一章、二句一章、三句一章などの分類には虚を突かれました。こうした問題意識は皆無だったのです。私なりに鮟鱇様の議論を反芻すると、なぜ四行ではなく、三行を選んだかということに行き着きます。四行ならば、句と章の関係はさらに入り組むことも可能になりますが、四行は長すぎると判断していました。鮟鱇様の、
>Haikuであるといえる三行詩にするには、詩法のうえでどのような工夫がされているのか、
という点には、まったく無頓着だったのですが、そういう風に受け取られる部分もあるかと思います。
>句読の長短でみる場合に、長章のあとの短章、長句のあとの短句で終わるのが、俳句的叙法なのか、と思えます。俳句には俳句の、歌には歌の、絶句には絶句の「詠み癖」があるとすれば、最後は短く、というのが俳句の「詠み癖」なのかと。
これも意識していませんでしたが、例えば、
役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ (古川柳)
一対か一対一か枯野人 (鷹羽狩行)
のように、句がQAの形式を取る場合に、前半長く、後半短くになりやすいかと思います。川柳などではQA方式を句の一つのパターンとして認識しているようです。
最後に、十六●の
● ● ○ ● ○ ○ ○ ○ ●
ですが、長さ自体に古典詩の背景はありません。一行目と三行目を繋ぐためにこの程度の長さが必要と判断しました。また、明暗の入れ替わりにある種の気分を受け取っていただければ、と思っています。
野口裕 様
獅子鮟鱇です。
拙問にお答えいただき、ありがとうございます。
> 私が、「とっさの三行詩」を書こうとした動機の中には、五七五、五七五七七でない短詩が私の内部に生じえるか、という問題
そういう短詩が、生じましたね。
また、Haikuを意識されたうえでの三行詩ではない、というお言葉、かえって頼もしく拝読しました。
私は、俳句は詩だと思っています。しかし、俳句は詩であるとする俳人のみなさんの多くが、その実、俳句だけが詩である、とされているように思え、それでは困る、と思っています。俳句だけが詩である、とすれば、日本語が貧しくなるだけだ、と思うからです。
私は主に漢詩を作っていますが、母語は日本語、中国語はほとんど話せません。しかし、そういう私の漢詩が、中国の漢詩人から、文法などの欠点の指摘を受けることはまずありませんし、作詩歴十年ほどで、定型三百余体、二万首の漢語の詩を私が作ったことは、中国の古典定型詩の詩的生産性の高さを示すものとして、中国の詩人を喜ばせました。
漢詩は、中国語を母語とせずとも作ることができ、日本人がなぜ漢詩を作れるかといえば、漢語が、われわれの母語の一部となっているからです。それがあるから、漢詩から母語である日本語へだけではなく、母語である日本語から漢語の詩への翻訳が可能です。そういう漢詩には、五言絶句だけが詩である、という論はなく、千とも二千ともいわれる古典詩の定型詩体があります。この中国の定型詩体群は、定型詩には多様な可能性があることを、世界に示しています。
一方、わが国では、定型といえば、多くの人が俳句を作るか短歌を作るかです。そして、俳句については日本人の多くは、五七五でなければならない、そう思っているようです。しかし、詩は翻訳可能、とりわけ短詩は翻訳可能、よい詩は、それが中国語であれ英語であれフランス語であれ、そのエキスは、翻訳可能なのではないでしょうか。とりわけ短詩は、翻訳できないわけがない。
それを踏まえるなら、俳句は五七五でなければならない、という論は、俳句が詩である、ということを、自ら放擲するに等しい論である、と思えます。俳句のエキスは詩であり、そのエキスは翻訳可能であるのに、五七五であるかどうかにかまけて、その作品が詩であるかどうかの本質を、往々見失ってしまうからです。
わたしは玉作の三行詩の多くに、俳味を読み取っています。それらは、まぎれもなく野口さんの俳句作りが発見した詩のエキスであると思います。それらが、五七五ではない、だから俳句ではない、というなら、俳句は、日本人にしかわからないきわめてローカルな詩だということになります。
世界では、日本語のまったくわからないHaijinがHaikuを作っています。彼らは日本の俳句を、翻訳を通して読んでいます。彼らが読む翻訳、決して五七五ではありません。中国語ではおおむね七音あるいは八音程度の短詩です。しかし、中国人がその七言句を読んで、俳句の何であるかを理解していないと、誰がいえるのか。
十七音が七音あるいは八音になる。そういう中国語と較べれば日本語は、とてつもなく冗長な言語です。多くの俳人が、そのことを知りません。だから、俳句は世界最短の詩である、などとののんきなことも言っています。確かに、翻訳で俳句に接する中国人から見れば、七音の詩は、世界最短。しかし、その世界最短の詩に、なぜ日本人は十七音もの音の浪費をしているのか。
その音の浪費、「てにをは」や用言がなければ文をなしえない日本語で俳句を作る以上、避けることができないと思います。そして、日本語の美は、「てにをは」や用言によって曲がりくねって冗長であるところにあるのだと思っています。だとすれば、なぜ日本の俳人は、世界最短の俳句ばかりを作っていて、世界最長の俳句を作ろうとはしないのか、などなど愚考いたします。曲がりくねって冗長である日本語の美を生かして、短歌の長さを超えるほどの俳句を作るにはどうしたらよいか、そういう工夫をなぜしないのか。
野口さんの三行詩は、すべてが俳句ではないのかも知れませんが、読者の立場からは、俳句のありようにつき、とても刺激的でした。
ありがとうございました。
コメントを投稿