どこかの惑星で、むかし 中嶋憲武
宵宮である。
仕事が終って、職場を出ると風に乗ってお神楽が聞こえてきた。
来集軒でもやしラーメンを食べ、お神楽に誘われて六区の方へ。
祭は人をうきうきさせるもののようである。すれ違う人すれ違う人、うきうきオーラを発している。
浅草寺の境内は、もう夜店がずらっと出ている。
広島焼の店の前には長い行列が出来ている。そのまわりで広島焼を作るのを見物する人の列。ぼくはその列に加わる。
17、8歳の少年少女が店を切り盛り。少女の、鉄板で卵を割ってゆく作業に見とれる。あっという間に10枚くらい目玉焼きが出来る。それを少年の焼いている広島焼の上へ乗せる。片手で鉄板で卵を割って中身を落し、殻はへらで鉄板の隅へ素早く寄せるのだが、この熟達ぶりに目を見張る。なにしろ早いし、黒い鉄板の上につぎつぎ白身が広がってゆく景が美しい。俳句を作る人ならこんなところを詠むのかもしれない。
祭の人ごみを歩いていると、感傷的な気分になる。宮沢賢治はそういう気分を銀河鉄道の夜で描いたし、手塚治虫はワンダースリーで、ボッコとプッコが盆踊りを見ながら、銀河パトロール中に見たどこかの惑星の惑星人のダンスを思い出して感傷的な気分になるさまを描いた。祭の感傷的気分。
それは、むかしむかしはるか何億光年もむかし、自分もどこかの島宇宙の惑星でたしかにこんな夜の風だったと、思い出すことに似ている、と言えなくもない。
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2009-05-17
どこかの惑星で、むかし 中嶋憲武
Posted by wh at 0:02
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2 comments:
手塚治虫氏の、特に『W3』と『海のトリトン』は、平凡な人々の営みと、民とは違う《異質》の意志が交錯した時に生じる出来事が、同時進行で、かつ平等に描かれていることのドラマチックな展開に感銘を受けて、幾度も幾度も読み直した少年でしたなぁ。だから、自分も氏と同じ高みを『俳句』で目指せないものだろうかと、ときどき冒険中。
お祭りを間近にした空気が伝わりました。
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