2009-06-14

商店街放浪記11 京都 寺町通り 小池康生

商店街放浪記11 京都 寺町通り

小池康生


京都の商店街である。

京都には、観光客の歩く商店街と、地元の人の歩く商店街がある。
<寺町通り>は、南北にずいぶんと長く伸びる商店街だが、京都市役所のある御池通りより北側、丸太町通りの南側までの部分を、取り上げたい。
御池通りをまたいで南の寺町通りは、すこし雰囲気がかわるが、御池の北側に通じる空気がある。

煎餅の<亀屋良永>。<本能寺>。<鳩居堂>などなど、重要なお店があるし、地元の人に親しまれている雰囲気がある。
ところが、すこしさらに南下し三条通りをまたいだ寺町通りは、<寺町京極>といって、がらりと雰囲気が変わる。

観光客、高校生、地元の光りモノの好きな若者たちの町。観光客を相手にする店が多い。でも、ひとまとめにすると語弊があり、老舗やしっとりとした店も多いのだが、それでも混沌と賑わう商店街であることは事実だ。
基(もとい)。

御池通りよりも北側の、<寺町通り>の話。

京都にそんなに詳しいわけではないが、この通りがたまらなく好きなのである。

すこしばかり京都に住んでいたことがあり、朝、鴨川に散歩に行く。気分によって、鴨川の西側を歩いたり、東側を歩いたり、両方を歩いたり、北山の幾重に重なる濃淡の山並み眺め、白鷺や青鷺や鳶や残り鴨を眺め、青いテントや床を眺め、川をあがる。泳いでいたわけではないが、川沿いから離れるのは、わたしにとっては“あがる”イメージであった。
散歩好きのわたしはそれでは終わらない。

生業に散歩があらば、“散歩人”になりたいくらいなので、まだまだ散歩は続ける。
その時に問題が起こる。

商店街好きのわたしとしては、鴨川をあがったあと、商店街もぶらぶらしたい。店が開いていなくともよい。お店の開く前の姿もそれはそれでいいのだ。良いお店は、開店前も美しいのだし。
鴨川での清冽な散歩を終え、さて次はと考えた時、鴨川あがりの気分を壊さずに歩ける商店街はというと、<寺町通り>の御池通りより北側の部分なのである。
鴨川をフジタホテルの脇からあがり、そこを西に進む。

しばらく行くと、<寺町通り>にぶつかる。

ぶつかった角に<八百卯>という果物屋があり、ここは、梶井基次郎の小説<檸檬>ゆかりのお店。主人公が檸檬を買う、あそこだ。
<その日わたしはいつになくその店で買い物をした。というのはその店には珍しい檸檬がでていたのだ>
檸檬は、爆弾を置くかのように書店<丸善>に置かれる。
このお店、残念なが、今年の一月閉店となった。ご主人がなくなったそうな。

この店のガラス窓に、梶井基次郎の<檸檬>ゆかりの店である説明貼られていたが、何度か読み、いつもなぜか途中でやめた。
こういう店がなくなるのは淋しいが、一度も買い物をしたことがない人間が言っても説得力がない。なにもかも、順次、無くなるのだから。
とにかくこの店の角が、わたしにとって、寺町通りの進入口。

そして、北上。

御所の一辺である丸太町通りにぶつかるまでの間がいい雰囲気なのだ。

観光客用ではなく、京都の人たちのための商店街である。
<一保堂茶舗>があり、ここのおおきなのれんを見るだけでも幸せな気分になれるし、茶を買えば、缶や袋のモダンなデザインでハイになれる。
御所のすぐ南である。

この界隈の人たちのプライド、御所に続く町として守り続ける空気があるのだと思う。
質素な町家が並びつつ、その町屋の連なりが商店街なのだ。

古本屋、古美術。八百屋。画廊。カフェ。

京都の市中の賑わいに疲れれば、ここで、のほほんとすればいい。

なにもないといえば、なにもない。

なにかあるといえば、いろいろある。
鴨川散歩のあとの気分を壊さずに、まだ歩きたいならここだ。

  京にても京なつかしやほととぎす 芭蕉

                        (一週置いての次回)

4 comments:

Kuni Shimizu さんのコメント...

キューバの詩人で米国に亡命しているオーランド・ゴンザレス・エステバ(Orland Gonzales Esteva)さんが、芭蕉のこの一句をもとに下記の句を詠んでいます。
Even in Cuba
if the birds sing
I long for Cuba
(水夫清)

獅子鮟鱇 さんのコメント...

 「ほととぎす」といえば俳人のみなさんにとっては、まず「夏の季語」、季題の本家の「ホトトギス」ということになるかと思いますが、漢詩人は、ホトトギスと聞けば、蜀の望帝(杜宇)が異郷での死後この鳥となり、蜀へ帰りたいと望郷の思いに啼く、という故事を思います。これを受けて、ホトトギスは漢語では、子規の他に、杜宇、杜鵑、杜魄、蜀鳥、蜀魂、不如帰(帰りたい)などと呼ばれ、詩題となっています。正岡子規も

      聞子規

  一聲孤月下  一声 孤月のもと
  啼血不堪聞  血に啼いて聞くに堪えず
  半夜空欹枕  半夜空しく枕を欹(そばた)つるに
  古郷萬里雲  故郷 万里の雲

 少年子規12歳(満11歳?)の時の作とか。「子規→望郷」を踏まえていて文句なしの佳作。漢字を覚えただけかも知れない私たちの小学校の国語教育は何だったのか、です。
 子規の作、蕪村の「春風馬堤曲」のなかの五絶が、漢籍に親しんでいることはわかるが平仄はまるで知らないと思えるほど韻律を踏まえず、平仄が合っていないのに比べ、さすが。
 子規の才と、彼の漢詩の師であった碧梧桐の父の力量を思わずにはいられません。
 結句「古郷萬里雲」は、平仄では仄平仄仄平(●○●●○)となっています。二字目の「郷」が孤平。
 五言絶句の二字目の孤平は避けるべきとされていますので、「古郷千里雲」「家郷万里雲」「家山万里雲」「思郷万里雲」とかにすべき、と見る漢詩人もいるかと思いますが、瑣末です。子規の詩に瑕ありとはいえません。

 さて、芭蕉の句。家郷にもどってもなお望郷、という諧謔が妙味だと思いますが、オーランド・ゴンザレス・エステバ氏のHaikuも、子規の詩も、「望郷」を詩題としているところが面白いです。
 なお、キューバには、「ほととぎす」はいないので「鳥たち」なのでしょう。

Unknown さんのコメント...

寺町二条をすこし上がった所(丸太町の方へ)に、三月書房という知る人ぞ知る本屋さんがありまして・・。私は若き日から随分お世話になてきております。このちかくに親戚もあり、京都では一番好きなとおりです。八百卯さんの閉店はまことに残念。

小池康生 さんのコメント...

久しぶりに開くと・・・魅力的なコメントの数々。おもしろく読ませてもらいました。
ありがとうございます。