2009-10-25

テキスト版 2009落選展 佐藤文香 まもなくかなたの

まもなくかなたの 佐藤文香

ひなまつり万華鏡から星を出し
紫の夜を蜜蜂は少女になる
踏絵して雨後は肋の如き雲
巻貝の殻に砂金や卒業す
春光はミシンのなかの街路樹へ
低く花ひろく銀貨のあおびかり
胡蝶二頭昨日手品に使いけり
ひかりつつ八重山吹の丘くだる
遊園地跡の菫がフェンス越し
春の風邪わが家に豆の溢れけり
マンボウの風船が浮く食品売場
花種の袋を跨ぐペルシャ猫
さざ波は田ごとにゆたか聖五月
文明開化指に躑躅の粘りあり
爪先を清水に浸す無名かな
全日制の靴箱にジャスミン満ちる
脱衣所に粽の笹を残しけり
鯉幟家の隣の焼けた小屋
目薬の鋭利な水や夜の新樹
月に氷青空市に金魚玉
ピスタチオ船室の浮輪はかたし
白薔薇の蕾は晴れた朝に似て
紫陽花は萼でそれらは言葉なり
六月の少女が描く過疎の村
ほたるぶくろまもなくかなたのをうたう
たてがみは肌より暗し泉川
崖に立つ林間学校のにおい
富士つめたく夏は我らに及ぶなり
砂に描く猫やその眼の底の海
信仰や如雨露で洗う足の裏
ひとつずつくらげ去りゆく鏡かな
眼鏡に乾く午睡の涙アイスティー
雹の昼走り出すとき息を止め
折鶴と天使したしく夏館
濡れて蛇の纏う黒、否、虹、これは
夕日に触れた海とホテルの冷房と
短夜の夢の渚のぜんまいあひる
かりそめの光に熱や水芭蕉
どんぶりの富嶽はげしき土用かな
黒日傘開く都会に鼻濁音
蝙蝠の体温うごく山の前
手つなぎ鬼の少女らは滝壺へ
海知らぬ川の背高泡立草
灯台を黄泉へ差し出す地球かな
地下街や晩年の身にワンピース
孔雀見て森とつぶやく夏の果
草の花身はかんむりにさだめられ
人形の腕腐りゆく真葛原
手押車ががらがらと銀河より
湯冷めして蛍汲む掌と思い居る

4 comments:

久留島 さんのコメント...

すんなりと読めて好きなのは次のような句。

踏絵して雨後は肋の如き雲
胡蝶二頭昨日手品に使いけり
目薬の鋭利な水や夜の新樹
ビスタチオ船室の浮輪はかたし
孔雀見て森とつぶやく夏の果

すでにして難解句もまじっているが、このあたりはすんなり読めるといっていいと思う。「踏絵」は選考会でずいぶん話題になっていたが、踏絵という季語に想像力が許されないなら、踏絵という季語の存在自体が許されないことになる。経験できない季語を使わないのは一つの見識かもしれないが、季語の世界をずいぶん貧しくしてしまう考え方だ。
想像することが許されるなら、中七以降は具体的かつ斬新な比喩であり、踏絵を終えたあとはなるほどこんな気分で空を眺めることもあろうか、と思わせる。
ただ、難解だったのは次のような句。

春光はミシンのなかの街路樹へ
蝙蝠の体温うごく山の前
灯台を黄泉へ差し出す地球かな

これらは一句のなかで造りあげたい世界が豊富でありすぎる。もちろん、失敗作の危険を含み込んだ上での実験作、なのだが、いささか独善に陥る危険がある。

五七五のぎりぎりのところに挑んでいるようで、読者に流し読みを許さない句群だな、と思う。作者は、ほんとうに俳句を作ろうとしている人なのだ。

上田信治 さんのコメント...

BU-819における実験では、大きく俳句の引力圏からの離脱を志向していた作者。その後の「里」2009年7月号発表の20句では、その脱すべき引力圏を自分で設定しなおすような、俳句的俳句と反=俳句的俳句の並置(〈五月雨に長刀の腕差し出すも〉〈夕凪にすこしむかしの怪獣は〉と〈餡蜜と無口な老人の世界〉など)を試みていた(反=俳句的俳句というのは評者の言葉で、作者がそう言っているわけではない)。

同様に、今回の50句は、俳句の引力圏を十分に意識しつつ、なお離脱の可能性を捨てないような、いっせいにバラバラの方角に走り出したかのような句群である、と読んだ。

今いちばん流行ってそうな文体は、このへん。
目薬の鋭利な水や夜の新樹
かりそめの光に熱や水芭蕉

若さで好感もたれそうなのは、このへん。
富士つめたく夏は我らに及ぶなり
雹の昼走り出すとき息を止め

あえて現代詩的クリシェをねらってるのか、このへん。
人形の腕腐りゆく真葛原
濡れて蛇の纏う黒、否、虹、これは
(↑この口調は、さまになってると思うけど)

選考座談会で、主に話題になったのは引力圏がわの作品の出来栄えについてだったが、

マンボウの風船が浮く食品売場

こういう句が、50句並んだら、あるいは、この世の全ての俳句がこうなってしまったら、それは俳句の「死後」の景ということになるだろうが、俳句がまだ死なずにあるかぎりは、これもまた俳句たりうるはずという、反=俳句的俳句。ぼくは買います、9,000円くらいなら。

紫陽花は萼でそれらは言葉なり

これは、BU-819が設定した課題のある部分を止揚して(切る部分は切って)、俳句に着地させた句と思う。同じ作者の〈鰯雲あの鰯はおれの鰯だ〉と並べてみると、なかなかに記念碑的二句ではないですか?

野口裕 さんのコメント...

紫陽花は萼でそれらは言葉なり

塚本邦雄が存命で『続百句燦燦』というような本があれば、文飾に委曲を尽くして味わいつくそうとするだろうなと思いました。決定的な一句です。

藤幹子 さんのコメント...

感想や好きな句など。

紫の夜を蜜蜂は少女になる
踏絵して雨後は肋の如き雲
巻貝の殻に砂金や卒業す
胡蝶二頭昨日手品に使いけり
花種の袋を跨ぐペルシャ猫
さざ波は田ごとにゆたか聖五月
ピスタチオ船室の浮輪はかたし
紫陽花は萼でそれらは言葉なり
ほたるぶくろまもなくかなたのをうたう
たてがみは肌より暗し泉川
砂に描く猫やその眼の底の海
信仰や如雨露で洗う足の裏
夕日に触れた海とホテルの冷房と
地下街や晩年の身にワンピース
孔雀見て森とつぶやく夏の果


この方の描出する世界は,とても精密な二次元に思える。
特に端々に現れる少女は,まるで会田誠の描くそれのようだ。精緻で,それ故に現実味がなく,だが,であるが故に,その世界に読者を連れ去っていく魔力をもっている。
私は連れ去られ,翻弄されるのを楽しむばかりです。