2009-11-01

〔週俳10月の俳句を読む〕鈴木茂雄 飛び出す絵本を開く

〔週俳10月の俳句を読む〕
鈴木茂雄
飛び出す絵本を開く


俳句は一冊の飛び出す絵本に似ている。つまり俳句を読むという行為は、飛び出す絵本を開く行為に似ていて、一句を垂直に読み下して脳髄にコトバを再構築する、すなわち飛び出す絵本を開いたとたんに、いままで平面体だった風景がにわかに立方体として組み立てられ、ヘラヘラだった樹木や人物も立体化し、いまにも動き出す気配を見せる。仕掛けの見事なものほどリアルに仕上がっていて、今回、わたしの目の前に鮮やかに立ち上がったのは次の作品だった。

風の盆だれのものでもない女  正木ゆう子

風の盆。一読、胸の奥底にまで響く音が聞こえる。再読、夜の闇にひらひらと舞う白い手が見える。三読、体の芯にまで染み込むような情念が背後に迫る。突然に現れたかと思うと不意に消え、寄せては返す白い波。ひそやかに、だが鋭く指先を反らせ、風を呼び、風を起こし、そして風を鎮める。膝を折り、腰を少し引いた「女」は、月のかたちをした編笠にその身を隠して、だが、かざす手は風のかたちに、ときに鎌のように鋭く、風を切り、風になるまで踊り明かすという。なんという抒情的な盆踊りなのだろう。とくに、町流しといって町々の踊り手たちが越中おわら節の唄い手と奏者を伴って、踊りながら町中を練り歩く光景はさぞ圧巻だったことだろう。

揚句は、越中おわら節の哀切感に満ちた七五調の旋律にのって踊る、洗練された艶やかな女踊りの踊り手の一人の
「女」に焦点を当てたものに違いない。なんという美しさだろう。「風の盆」の踊り手がより美しく見えたのは、いわゆる「夜目遠目笠の内」だからではない。浴衣の内側が燃え輝いているからである。加えて、「女」がよりいっそう美しく見えるのは「だれのものでもない」ときなのだろう。だが、この「だれのものでもない」というコトバの音律には「女三界に家なし」に対するアンチテーゼの響きがある。


射的屋に鸚鵡の飼はれゐる晩夏  正木ゆう子

この「ゐる」の一語に示した作者のアンニュイは、とても気になった。前後して引いた所以である。「射的屋の鸚鵡」はジェンダーとしての女性の暗喩だろう。その心象風景を垣間見る思いがして痛々しい。季語「晩夏」のせいだろうか。思いは季語に委ねられる。「無題」というタイトルにも作者の俳句に対する姿勢の表れを見る思いがした。

 

林檎投ぐ男の中の少年に  正木ゆう子

双腕はさびしき岬百合を抱く

泳ぎたしからだを檻とおもふとき

着膨れてなんだかめんどりの気分

螢火や手首ほそしと掴まれし

螢狩うしろの闇へ寄りかかり

オートバイ内股で締め春満月

やがてわが真中を通る雪解川

かつてホームページ作りに熱中していたときに作った「現代俳句アンソロジー」の中に収めさせていただいた意中の作品だが、「射的屋に鸚鵡の飼はれゐる」は「からだを檻とおもふとき」に繋がっているが、射的屋の句はまるで現実の時空からズレた異次元の世界にいるようでありながら、妙に生々しい存在感がある。読み手のこちらまで射的屋の女主人のそばにいてその横顔を眺めているような気がしてくるから不思議だ。

わたしが正木ゆう子という俳人にひかれたのは、作品も然ることながら、その俳句観に同感するところが多いからにほかならない。いわく「なぜわれわれは俳句にこれほどひかれるのか。それは俳句が見せかけの現実を越えた時空まで見せてくれるからである。短さと切れの装置によって、宇宙のゆめみる暗闇をわが脳髄にまで引きよせてくれるからである。」(『起きて、立って、服を着ること』深夜叢書社)いわく「俳句とは端的に言えば、言葉によって世界と繋がる装置である。繋がるというより、繋がっているのが分かる装置と言った方がいいだろうか。その実感は年々強くなる。」(『十七音の履歴書』春秋社)

わたしもかつて次のように語ったことがある。「俳句という、この短い、たった一行の詩片が、名句や秀句と呼ばれる詩形を得たとき、何故これほどまでに凛とした印象を鮮烈に読者に与えるのだろう。そして、俳句というこの極小の詩形が今日まで詩としての存続を可能にしてきたのは何故なのだろう。一句を前に、そんな思いを抱いたとき、思い当たるのは切れ字という存在だ。一句の中に美しく嵌め込まれた詩語でもなければ、季語でもない。切れ字という修辞的技法の存在である。(略)」(「切字断想

風の盆の句もまたその切れ字という抒情的空間の発生装置によって、一句はさらに鮮明に読者の「脳髄にまで引きよせてくれる」」ことだろう。

さらにいわく。「俳句の文法は世間の文法とは違って、かなり非論理的である。論理から外れていればこそ俳句の面白さが生じると言っていい。」「ズレやネジレ、さらには飛躍、断絶は、一句の中の〈切れ〉のところで起こる。その〈切れ〉こそが、俳句が散文と違う重層性を持つための装置なのだ。世界のリアリティーは、そのスリットに宿る。」(『正木ゆう子集』邑書林)

このことにも共感を覚える。置いてはいけないところに置いたり、当然置かなければいけないところに置かなかったり、いわばコトバの駐輪違反、ブンポーの破格、コトバの変換など、大いに試みる価値がある。なぜなら、それらもまた俳句的倒置ともいうべき表現技法のひとつだからである。カクチョーが高いのもいいが、もっと俳句で刃乱したり(はみ出したり)、好き魔に堕ちたり(隙間に落ちたり)、オドロが居たり(驚いたり)、鷽を突いたり(ウソをついたり)していいと思う。俳句という詩形は、コトバの破壊力を得たとき、宇宙を壊したり、洗い直したり、再構成したりしはじめるのだ。

わがノート版「現代俳句アンソロジー」には、正木ゆう子の作品がさらに増えることだろう。

赤き紐春の神社に失くしけり
たんぽぽ咲きティッシュペーパーつぎつぎ湧く
さくらの夜鋏開かれしまま置かれ
鳥雲に帽子のなかの文字うすれ
部屋中が匙に映りぬ雛祭
満月の畳に海の砂少し
たくさんの百合添へて死を頂戴す
風に薄き表皮のありて月見草
水の地球すこし離れて春の月
とりかへしつかぬ桜の咲き満ちて
春の山どうも左右が逆らしい
世は斜めほたるぶくろを這ひ出して
地下鉄にかすかな峠ありて夏至
山脈の一か所蹴つて夏の川
平均台端までゆけば星月夜
死を遠き祭のごとく蝉しぐれ
夏の暮楕円を閉づるごとくなり
月光を感じてからだひらく駅
いま遠き星の爆発しづり雪
大いなる鹿のかたちの時間かな


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