2009-11-01

『俳句』2009年11月号を読む 五十嵐秀彦

【俳誌を読む】
「新しい才能の発掘」という看板 角川俳句賞選考
『俳句』2009年11月号を読む

五十嵐秀彦


第55回 角川俳句賞選考座談会「技法を押さえた上で冒険を!」 p110-

さて、どうしたものか。
今回、「俳誌を読む」を引き受けたものの、今月号が「角川俳句賞」の発表号だったことに今頃気づき、少々書きにくいなぁ、と思っている。
いっそ無視して別なことでも書こうかと思ったが、それもかなり不自然。

少し顰蹙をかってもやはり今回は「角川俳句賞」について書くことにする。

(以下、敬称略でいきますのでよろしく)

ひとことで言って、毎度まいど完成度と個性についての予定調和の議論を聴かされているようだ。
その議論は結論を出すことが無い。
結論は受賞作がそれだ、と言うのだろうか。
けれど、受賞作を通して結論を出していないことが、しつこいようだが毎度まいどのことになっている。

いや、この「角川俳句賞」の結論はとっくに出ているのかもしれぬ。
そう考えるとこの座談会も、選考委員の先生方には失礼ながらデキレースに見えてしまう。

そうは言いながら、この賞に多数の才能ある俳人が応募しているのは確かで、受賞に向けて身を削る思いで精進していることは伝わってくる。
この賞に意味があるとすれば、そこにこそあるのかもしれない。
週刊俳句が「落選展」をやったのは、その点でこの賞の本質(「俳句」誌がそれを本質と思っているのかどうかは知らぬが)をつかんだ企画だろう。

この座談会を読んで、選考委員の先生方はまことに御苦労なことだと思う。選考委員その人が読者の批評を受けてしまう面があるから。
毎年こういう選考が続くのなら、思い切って、個性中心派の委員と完成度中心派の委員の二派にきれいに分けて、思いっきりやり合った上で、受賞作ナシというのが外野にとってはすっきりするのだが。
ようするに結論の出ない同じ議論を毎年繰り返すのが、角川俳句賞選考のどうやら儀式のようだ。
「新しい才能の発掘」は、あくまで看板の文句であって、内容はそうなっていない。
受賞作と受賞者が決まった段階で、一連のショーは幕を下ろす。
「俳句」誌はその後、カラーグラビアを受賞者の写真で飾り、受賞後の作品に数ページを割き、あとは特に何もない。
どうせなら芥川賞バリにとことん売り出してみてはどうか。
句集を売る作戦をたて、角川の力でメディアを利用し、力ずくで流行させてみるという手はどうだろう。
さぞ反発の嵐が吹き荒れ、今のドブのように淀んだ「俳壇」という世間を上を下への大騒動にすることもできる。

そこまでやったらよいのに。

ここまで書いて、ずいぶんひどい言い方だなぁと自分でも思うのだが、毎年、角川俳句賞の発表のたびに少しばかり心が重くなるのだ。
もうとっくに「核」も「頂」も失ってしまった俳句の世界で、「角川俳句賞」とはいったい何者なのだろう。
そう疑問を持ちつつ読む選考座談会の内容は、既視感に満ちたものだった。

あら探しをするわけではないが、発言を拾い読んでみたい。

(長谷川)《できている作品が七篇あって、そのうちの五篇を選びました。その五つの中に二系統あって、「つづきのやうに」と「雲の抜きゆく」。もう一つは「萵苣」「餅花」「故園」の系列です

(正木)《今回、完成度の高さで選んだのと、そうではなくて失敗作もあるけれどこの詠み方でいくと個性的な作者になるんじゃないかということで選んだのと、二通りの選び方をしました

選考委員はいつもひとりひとりが、このふたつのことを気にしているよという構図が出来上がっている。
そして佐藤文香の「まもなくかなたの」に関する池田の発言をちょっと乱暴かもしれないがダイジェストにすると次のようになる。

安全度に比べて、とても難しいところを攻めようとしている。そういった意欲が私には感じられました
失敗しやすいところで作っているから難しいんです。だから失敗が多い
それこそ将来性があるというか、他の人には作れない句を作っているというところはあります。ただ、五十句となると失敗作が多すぎます
でも、失敗してもらっていいんですよ
受賞は無理だと思うけど
(以上、池田澄子)

どうやら池田の好みに強く触れたようなのだが、しかし、角川俳句賞ってそういうものじゃないという思いがあるらしい。
失敗してもいいけど、受賞はダメよ、というところが気になる。

今回は、その池田が◎をつけた相子智恵の「萵苣」が受賞した。
その「萵苣」の選評で私が気になった発言は次のとおり。

(池田)《よくまとまっていると思いました。最初に悪口を言ってしまうと、俳人の好みを弁えているという感じもちょっとしたのです、まとまり方が

(正木)《完成度と個性が両立しないということをいつもここで話し合うわけですが、この作品は完成度が高く、かつ個性を備えていると思います

(長谷川)《僕はそうは感じなくて、あまりに整い過ぎていて、従来の俳句どおりの感性がちらちら覗くので、そこを考えたのです

(矢島)《あまりにおとなしくて、それが不満でした

(池田)《ちょっと俳句の作り方に慣れているというか、大袈裟に言えば毒されているところ、きっとご自分で気がついていないと思うのです

(長谷川)《個性と完成度のうち、個性のほうは小さく書いておいたほうがいいという感じがする

(矢島)《ハチャメチャな句もいっぱいあった中で抜きん出た句があった。「萵苣」にもそういうものが入っていれば本当にいいと思うんだが、まあまあ、いいでしょう

そして、全体の講評の中での次の発言。

(長谷川)《もっといろいろ実験があったほうが角川の俳句賞としては面白いと思うのです

(池田)《一年に一回、角川俳句賞がある。そのために五十句をまとめようとがんばるわけでしょう。こういういい句があったけれど、他が失敗だからダメと言われてもいいじゃないですか。この五十句を書くことで、書いている人たちは変わっていくはずです。だから、失敗してもいいんです

以上の発言を追いかけていくと、角川俳句賞の性格が見えてくる。
今回受賞作の「萵苣」に◎をつけて強く推す形になった池田ではあるが、最後の発言からは、受賞することよりその過程に期待する本音が覗えた。
実験作が出てきて欲しいと言いながら、実験作が受賞することはおそらく今後もないだろう。
実験作なのに完成度が高いなんて、まるで笑い話である。
今現在という時代における完成度という概念を否定するからこそ実験作なのだから。
そして、もし実験作があったとしても、編集部の予備選考ではじかれているのだろうから、長谷川がいくら言ったところで、選考委員の目に触れることはない。
いつもいつも完成度か個性かと言いながら、結果的には現在の俳句の世界の「常識」に合致した作品に落ち着いて終わるという「お芝居」のようなものだ。

とは言っても、今回の受賞作を貶めようというつもりはさらさらない。
どちらかと言えば好きな句が並んでいた。
「角川俳句賞」にしてはいいな、と思ったのだった。


受賞作品 相子智恵「萵苣」  p100-

十ばかり墓あるほかは夏野かな

すでに暗き汝が顔夜店離れれば

ひとつづつ脚たたみ鹿もう寝るか


(他の応募作品については「週刊俳句」の「落選展」をお読みください)


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