〔俳誌を読む〕
『俳句』2009年12月号を読む ……山口優夢
●特集 「自己流」を抜け出す七つの力 p.71-
七つの力、とは何かと言うと、以下に挙げる七つである。
定型を自由に操る力
適切な季語を選ぶ力
感動を写生する力
文語を使いこなす力
他者の句を鑑賞する力
自句を推敲する力
句材を豊かに表現する力
櫂未知子氏の総論の後、この七つそれぞれについての論考が並ぶ。ここで言う「自己流」とは、「俳句の基礎が出来ていない」「自分勝手な句作り(編集後記より)」を指して使っているようだ。そのような句を脱却し、「読み手の共感を得るために必要な七つの基礎力を提案(企画リード文より)」を行うとのこと。「読み手」とは誰を想定しているのか、「共感」が本当に句作の最終目標でいいのか、といったツッコミはもちろんすぐに思い浮かぶ(結構難しい問題ではある)が、いずれにしても基礎が必要であるということには異存はない。
この特集は、基礎力をどのように鍛えるか、という実作に対する指南としてよりも、未来から今の時代を見返した時に、この時代では一体何が俳句に必要だと考えられていたか、を示す歴史的な文献と考えた方が面白いのではないか。そういう意味では、僕が思う限りにおいて、現代、俳句の基礎と言えばこういうことでしょう、という最大公約数的な観念はこの特集に十分表れているように感じた。そのような、ある時代の空気感というものはなかなか文書に残りにくいと言われるから、その点では価値がある特集なのかもしれない。しかし、我々同時代人からすると、さほど新しみのある視点があるとは言い難い。何十年も年を経てから含蓄の深まる企画なのかもしれない。
特集全体の雰囲気として一つ思ったのが、どの記事も「このような力を必死で身につけなければならない」という気配が濃厚に匂ってくるのが、自分の感覚には合わないなあ、ということ。たとえば「文語を使いこなす力」というのは僕自身も文語で俳句を詠むのならば必須だと思う。しかしそれは淵脇護氏が記事中で言うように「有季・定型の短詩型文学である俳句を、より凝縮した次元の高い文学作品に導くために、文語の果たす役割はやはり大きい」と感じるからではなく、わざわざかっこつけて文語を使っておきながらその使い方が間違っていたらださいじゃん、と思うから、である。こういうことは、もっと肩の力を抜いて考える視点があってもいいのではないか。
それと、びっくりしたのが「感動を写生する力」というテーマを与えられた朝妻力氏の記事中で、「吟行の最大の敵はおしゃべり。吟行に出かけたら「お口にチャック!」を合言葉にしましょう。」という一文。そういう考えのもとで吟行を行なっている人もいるのだなあ、と、素直に驚いた。僕などは、吟行に行って周りの人としゃべることが句作りのヒントになったりなどもするものだから、おしゃべりできないとなると大変だ。しかしあまりわさわさと大人数で動いてうるさくおしゃべりなどしていたら確かに周りに迷惑ではあるが。
また、櫂氏の総論「自己流から個性へ」で「他者との何らかのかたちでの交流、あるいは刺激の与え合い」が「自己流」を抜け出すために大事だというのは、当たり前のことながら重要な指摘だと感じた。それは「俳句は座の文学」と言うことにつながるのだと思うのだけれど、そのような使い古された言葉を使わず、自分の経験をきちんと自分の言葉に昇華しているからこそ、読みやすく説得力のある論になっている。
ただ、他者との交わりを重視することは、たとえばある閉じられた共同体(代表的なもので言えば結社など)の中で句がたがいに似通ってしまったり、あるいは知らず知らず作る句が自分の意識する作家の後追いになってしまったりという事態を招きやすいとも言える。櫂氏の記事ではこの点については特に具体的には触れず、他者との交流以外には「ひとりになって自作を養うための静かな時間」も必要、という一語にとどめている。そもそも他者の句を知らなければ他者と句が似ているかどうかも分からない、という点はもちろん櫂氏が記事中で指摘する通りではあるのだが。
この総論も結局は俳句を詠むうえでの基礎なのであり、そういう意味では、櫂未知子は優れた文章の書き手だとは思うが、必ずしも彼女が書かなくてはならない記事だったかというとそうでもないのではないか。他者の句を知り、それを愛し、翻って自分の句作を考えるとき、我々は何を自分の句に見出すべきなのか、あるいは、櫂氏自身は何を自作に見ようとしているのか。そこに迫るような企画を、総合誌で見てみたいというふうにも思っている。
●人物特集 正岡子規を支えた「友」 p.129-
正岡子規にとって重要であった友人をいくらか紹介した記事。作家の村上護氏が文章を書いている。秋山真之に始まり、内藤鳴雪・夏目漱石・柳原極堂など、もちろん名前が挙がるであろうと予想される人物が並ぶ。唯一、従軍記者時代に森鴎外と会って文学を論じたというのは僕は知らなかったが、知っている人は知っていることだったのだろうか。
この企画は村上氏自身が「ここでの良友は、十一月末から放送のはじまるNHKスペシャルドラマ、司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』にも登場してくる人々である」と言っている通り、おそらく『坂の上の雲』放送に合わせての企画なのであろう。放送を見るときには、ハンドブック的に活用するといいかもしれない。
●連載 現代俳句の挑戦 第12回 父恋・母恋を越えて 髙柳克弘 p.178
ありがたいことに、拙作
焼酎や親指ほどに親小さし
を取り上げていただいている。感謝。「焼酎」という季語の斡旋については「安手の家族ドラマのような底の浅さを見せてしまって、宜えない」と、しっかり苦言を呈されているが。
髙柳氏は、拙作を足がかりに、俳句において父母がどのように詠まれてきたかを探ってゆく。父恋、母恋やエディプスコンプレックス的なもの、近年の女性作家の描く父に注目してゆき、最終的には父母に対して「負の感情をにじませる」飯島晴子、淡々と父母を描く小川軽舟を経て「気取りや衒いのない親との関係性」という特徴を現代的と見て、拙作に帰ってくるという流れだ。
どうでもいいことなのだけれど、この拙作を含む僕の角川俳句賞候補作が掲載された角川俳句11月号が我が家に届けられたとき、「お、50句載ってるよ」とちょうど居間のソファーに寝そべっていた父に何の気なくそれを見せに行き、あとで「親小さし」の句があったことに気付いてひとり気まずい思いをしたことを思い出した。父はそれについては何も言わずに「(座談会で)おまえの句は軽い、って言われまくってるじゃん」などと言っていたが。
髙柳氏が挙げていない父母の句では、僕は
父酔ひて葬儀の花と共に倒る 島津亮
が好きであるし、俳句における父母を考える際には、(特に父恋、母恋と異なるアプローチで父母を詠むということを考えるとすれば)重要な句とも思う。羞恥心をかなぐり捨てて言わせていただければ、心情的には拙作に通じるところがあるかな、と勝手に思っており、そういう意味では、拙作は残念ながらそこまで新しいものではないかもしれない。
●連載 俳風フィクション 今日も俳句日和 歳時記と歩こう 石田郷子 p.28
●連載 郁良と楽しく文語文法24 俳句における「切れ」 佐藤郁良 p.110
●連載 名句合わせ鏡(24) 形式について―虚子の場合 岸本尚毅 p.122
今月は12月号とあって、最終回を迎える連載モノがいくつかある。いずれもこの2年間、それぞれ独自の存在感があった記事と思う。著者の方々お疲れ様でした。
佐藤郁良氏の今号の記事「俳句における「切れ」」は、週刊俳句135-136号での海程秩父俳句道場レポートと通底する内容で、興味深い。岸本尚毅氏の名句合わせ鏡の最終回にはびっくりした。終わりが、ふっつりと切れている感じなのだ。次号から続けようと思えばこの話から続けられるのではないか、というような。エッセイのような文体で書かれた石田郷子氏の俳風フィクションがそのようにふわりとした終わり方をしているのはうなずけるが、論として書かれている文章で、まとめや「おわりに」にあたる文章なしで終わるというのはなかなか見られないのではないか。
文章に対するこの力の抜け具合は、まさしく岸本尚毅その人の個性であるように感じられる。岸本氏は虚子の句を挙げて「何の変哲もない風景が、さほど面白くなさそうに詠われています」と言うけれども、さほど面白くなさそう、という態度は、岸本氏にこそ通底しているような。そのあっさりした塩加減が、岸本尚毅の文体となり、彼の論に説得力を与えているのかもしれない、と思った。
2009-12-06
〔俳誌を読む〕『俳句』2009年12月号を読む 山口優夢
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿