〔俳句総合誌を読む〕
批評の不在?
『俳句界』2010年1月号を読む
五十嵐秀彦
●特集 「俳句よどこへ行く!?」 p48-
「俳句よどこへ行く!?」という問いは、いかに「現代俳句を隆盛と見るか?衰退と見るか?」というサブタイトルがあったにしても、座談会のテーマとして難しいものだったのではないか。
池田澄子・今井聖・坊城俊樹が三者三様に探るような発言となった鼎談である。
池田は、状況や傾向より自分自身という姿勢を崩さない。
対して今井は状況分析を試みるが、少し空回り気味。
坊城は聞き役に徹する。そんな印象。
核心に触れることのないまま終ってしまった感はありながら、共感できるところもあった。
ただ、ひとつ気になったのは、途中出て来る「主観」という言葉だ。
坊城「つらいことも突き放して、ありのまま詠む。そういう残酷さのようなものもあっていいと思う」
池田「それも写生と言えるんじゃない? 自分が抱えている現実をちゃんと書いている」
坊城「そうですね。主観写生に近い」
う~ん。
簡単に「主観」と言って何かを整理したかのように考えることは、そろそろ止めてはどうかと思ったのだった。
この特集は鼎談のほかに論考が2篇ある。
筑紫磐井の「「ことば」が見えない」は、俳句に限らずいかなる状況においても世代交代がなければ衰退する以外にないという筆者の主張である。
平成になって一時状況は停滞したが、最近は芝不器男俳句賞や俳句甲子園などの動きの中から有望な新人が登場し始めており、新しい芽が出てきていることを指摘し、隆盛か衰退か結論を避けながら、希望はあるという直球マトモな意見だ。
しかし最後に筆者は唐突にも思える呼吸で「ことば」について語る。
《多くの若手作家のように言葉を発せず黙々と句を詠むだけでは、共感も生まれず、新しい時代も生れない。「ことば」がほしい》
最後に置かれたこの一言はなかなかに重い。
新人が登場すれば状況が好転するとは限らず、そこに新たな批評精神の登場こそ必要であることを筆者は特記したかったのだろう。
もう一篇は横澤放川の「あだかも乙字のごとき」で、近代俳句史の虚子と碧梧桐の対立と、このふたりの衝突に対する大須賀乙字の批判を借りて、「独楽の弾きあい」が時代の要を作り潮流を作り出すことを指摘。
《現代俳句の隆盛をいうためには、その現代の要を知らしめる歴史観に立った批評がほしい。そうしてその要における弾きあいがどこにもないのであらば、不幸現代俳句は所在に迷う衰退のうちにあるのだろう》
面白い。
筑紫磐井と横澤放川の二氏は期せずして異口同音に批評の不在を嘆いているのである。
●「ピックアップ 話題の新鋭 神野紗希」 p172-
神野紗希はその積極的発言で今や論客になったかのようだ。
インタビュアーの栗林に、若い層の俳句愛好家を増やす役をあなたが担ってくれるのではと振られ、次のように答えている。
《私は、もし俳句愛好者を増やしたいなら、俳句の作り方よりも読み方を説明して、俳句作品の魅力を積極的に紹介する方が良いと思います。私自身も、俳句を始めるまでは、どう俳句作品を読んでいいのか、何が面白いのか、分かりませんでした。結社誌や総合誌にも「俳句の作り方」だけでなく「俳句の鑑賞」のページがあると、より楽しいし、俳句への理解も深まると思います》
また、インターネットによる俳句の変容ということについては
《悪いほうには変わらないと思いますよ。インターネットは情報量で勝負する世界ですから、批評に向いていると思います。批評はいくらあっても嬉しいものですから、媒体がひとつ増えたことを、私は素直に喜びたいです》
と述べており、ここでも批評のことが話題となったのは特集の論考2篇と同様であった。
『俳句界』という総合誌の企画はときどきずっこけることもあるけれど、他の総合誌に比べ俳句の現状に積極的にかかわろうという意欲が感じられる。
いわゆる俳壇というものを編集の中心に置かず、動きの方に注目している点で評価できるのでなかろうか。
2010-01-10
批評の不在? 『俳句界』2010年1月号を読む 五十嵐秀彦
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