2010-01-10

読むことの豊かさへ向けて 『俳句』2010年1月号を読む さいばら天気

〔俳句総合誌を読む〕
読むことの豊かさへ向けて

『俳句』2010年1月号を読む

さいばら天気



高柳克弘・十七音に徹して読む 現代俳句の挑戦 第13回 p138-

読むという行為のゴールを「作者の意図」や「作者の思い」と定めること(これは俳句で長らく続いてきた因習)への疑義(と否定)を呈する論考。鶏頭の十四五本もありぬべし(子規)を駄句とする坪内稔典の提起から話を起こし、同じ句についての山口誓子、山本健吉の、ともに「病床の子規」を前提とした論評を並置、「作者」という予見から解放された読みを提案する。

いまさらのように引くことになるが、ロラン・バルトの「作者の死」「作品からテキストへ」から半世紀以上を経てもなお、この種の問題に立ち帰らねばならないことを、ま、そう退屈も悲観もせずに、ひつこく取り組むべきなのだ。

つまりは、記事タイトルのとおり「十七音に徹して読む」こと、そこから「読み」の豊かさ、ひいては俳句の豊かさが生まれる。これが高柳の言いたいことだろう。言い換えれば、「十七音に書かれていないことを読むな」ということだろう。

興味深いのは、句会という「匿名の空間」への言及である。それは「作者の意図をひとまず置いて、多様な読みに晒す」機能をもつ、と高柳は指摘する。俳句は本来的に、また日常的に、作者から切り離されている、と、あらためて指摘するのだ。

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一月号ということで、新連載もいくつか。長谷川櫂「一億人の『切れ』入門」(p48-)、片山由美子「伝えたい季語 変化する歳時記」(p76-)は、両氏それぞれ「切れ」「季語」についての見解をこれまで各所で開陳されているだけに、鮮度よりも安定感を優先させた起用と映る。前者は「間」の話題が初回の今回、後者は初回とあって季語の発生・誕生に紙幅を割き総論めく。

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合評鼎談は新メンバー。今瀬剛一、岸本尚毅、山西雅子の三氏。初回はさらっと読め、ひっかかるところなし。昨年とは大違い。一句一句、細かいところを参考にしたい人にはいいかもしれない。

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新年詠(8句)が39作家並ぶのもこの号の目玉。金子兜太が尿瓶(しびん)を8句詠み、ひとり異彩(異臭)を放つ。2010年も「兜太の年」なのかも。

 山枯れて女子小学生尿瓶覗く 金子兜太

余談だが、学生の頃、友人と歩いていて小学校のプールの横をさしかかったとき、彼が「女子小学生」の語を口にし、衝撃を受けた。女子大生、女子高生、女子中学生まではあっても、女子小学生という視点は、世の中に(合法的には)認知されていなかった。「女子小学生」の語には、そのとき以来、二度目の出会いとなった。

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第一回石田波郷俳句大会のレポートも(p186-)。受賞作は西村麒麟「静かな朝」。

  貝の上に蟹の世界のいくさかな  西村麒麟

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新春若手競詠(p206-)より。

  白鳥の怒れる腋を見せにけり  津川絵理子

  月面のまるみにそつてゆく寒さ  鴇田智哉

  元旦の干潟平らか木に逢わず  佐藤文香

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特集は「新年詠のコツと魅力」(p85-)。特集全体の巻頭、茨木和生「体験を通して詠もう」に興味深い記述があった。

正月になると、ささやかな「蓬莱」を作って、模擬体験をしたりする。近くの山で採ってきた松や実のついた南天を活け、かなり昔に貰っていた那智黒石で島を作り、蓬莱の種々を飾り立てていく。
俳句(季語)的世界を日常生活の中に取り込んでいくのは、愉しいことかもしれない。それで「いい句」ができるかどうかは別にして。


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