2010-02-07

〔新撰21シンポジウムを受けて〕私たちは、なぜ書くのか 神野紗希

〔新撰21シンポジウムを受けて〕
私たちは、なぜ書くのか
~主題の回避の回避 
……神野紗希

もともと、拙論「主題はあるか」で書き起こしたかったのは、次のようなことだった。

強烈な意志のこめられたテーマ性の強い作品に、なおかつ高い技術が伴ったとき、作品は、否応なしに人の心の芯を打つ。(略)他の主題を持ち、そのために表現を磨く俳人に対して、表現を主題とし、表現を磨く俳人は、いったいどう対抗できるのか。
(「豈」49号拙稿「主題はあるか」)

シンポジウム中、高山れおな氏が「別にみんなこういう主題で俳句を詠みましょうとか、そういう主張があって言ってるわけではない。」と補足してくれたように、私は、創作者として明らかな主題を掲げるべきだといっているわけではない。しかし、書いていく中で、主題、言いかえれば作家自身の志向とか倫理のようなものはおのずと現れるもので、読者として他者のそれに敏感でありたいということと同時に、いち作者としても、自らの志向や倫理のようなもの、みずからがうちに持っているであろう主題に、意識的でありたいと思っている。

というのも、小川軽舟氏が、『現代俳句の海図』(角川学芸出版)で、昭和三十年世代の特徴として挙げた「俳句もまた、それを用いて何かを主張する手段ではなくなり、表現行為としての面白さそのものが目的となった」という主張に対して、それはあまり共感できないな、というのが正直な実感だったので、こういうことを書いたわけだ。

私自身、俳句をはじめたころは、俳句の「表現行為としての面白さそのもの」に惹かれて、俳句をつくっていた。特に、取り合わせから入ったものだから、季語も言葉も記号だと思っていて、大学一年生のときにまとめた第一句集にも「これからも俳句を真剣に遊んでいきたい」と書いたくらいである。そんな昔の自分を、今はすこし嫌悪している。言葉を玩具だと思っていた子どもだな、と思う。俳句は、単なることば遊びではない。

いくら、俳句をつくる目的を「いかに詠むか」という問題にスライドさせようとしても、「何を詠むか」という問いは解消されない。私たちの目の前には、相変わらず、「何を詠むか」という問いが横たわっている。「いかに詠むか」も、もちろん大切だ。しかし、「何を詠むか」は、きっとそれ以上に大切だ。

私は、もちろん、美術館の硝子の中の、美しい工芸細工が大好きだ。そして、そういう美しいものたちを守るために、美術館を運営したいとさえ思う。その作品にもっとも合う照明や空調、展示方法を考えていきたい。しかし、自分がどういう俳句を作るかということは、他者の俳句を評価するときとは別の話だ。私は、誰が守ってくれなくても、ひとりでタフに生きていける俳句が作りたい。野で雨風にさらされても、壊れないような。そのタフさは、形式(詠み方)から、主題(内容)から、主体(=私という人間)から、複合的に補強されるものだろう。


「そうしてもかまわないような気が、だんだんしてきたんです」 「逃げまわっていても、どこにも行けない」 「たぶん」と僕は言う。 「君は成長したみたいだ」と彼は言う。
(村上春樹『海辺のカフカ 下』より)


より強い、タフな俳句を。そのためにはきっと、主題や主体という問題から、逃げてはいけない。主題や主体は、作品を豊かにしこそすれ、痩せさせることはないからだ。美しい表現の追及はもちろんのこと、もっと複合的に、私たちの俳句を豊かにしていく営みが必要なんじゃないか。

高山81  状況として戦争とか貧困といった主題も無くなったし、文学の考え方としてもテキスト論的な考え方がそれを補強するような地盤を提供したということで、主題というものから或る意味、作者は解放されたわけですね、そこで。こういう考え方は、主題とか主体というものから作者を解放してくれたんでしょうけど、やっぱり結局それが作り手が成熟する契機みたいなものを奪ってるんじゃないかなということを私は漠然と感じています。(略)

関82 かなり話し残したことがあるんですけど、長谷川櫂さんがちょっと衰弱して見えるというのは、これはこの文脈でも主題的なものに対する峻拒で、潔癖になりすぎると。要するに純粋化路線を進めたことで、純粋化すると大体芸術は衰弱することになってますから、これは半ば危ない方向へ自分から行ってる気がして。 高山83 だから長谷川さんはその純粋化をいちばん徹底して、能力も高いし、自信もあるからそれを徹底して、普通より徹底しているところもあると思うんですけど、やっぱり長谷川さんだけじゃないですからね、その純粋化というのは。だから、主題というのは俳句を非常に濁らせるというか、濁って汚いものもいっぱい入れてくることによって、逆に俳句を豊饒化する要素があるはずで、だからそういうところを捨ててないから、やっぱり今の金子兜太と長谷川櫂を比べると、どう見ても金子兜太の方が豊かに見えますよね。

長谷川櫂氏は、週刊俳句138号(2009年12月13日発行)に、「追悼」10句を寄せている。とても感動した。これまで長谷川氏が培ってきた表現技術に、ほんとうの命が吹き込まれている。

どんな無風の時代でも、私たちが、生まれて、そして死んでいく存在であり、有限の時間の中に封じ込められているという事実は変わらない。たとえば長谷川氏が、川崎氏の死去に対峙して書いた「追悼」10句は、きっと「いのち」というテーマの芯に抵触しているのだ。やはり、技術は、ほこるためではなく、何かを表現するためにある。そう思いたい。

繰り返すが、私は、表現技術も大切だと思っている。いくら主題があっても、醜い作品は醜いだけだ。ただ、より広い戦場でたたかうならば、武器はいくつも持つべきなのだ。

巧みな表現をもって書かれたテーマ性の強い句はタフで、それはいくつかの違うものさし(評価軸)で測られても、それぞれのものさしに、ある程度かなうようにできている。そうしたタフな俳句を求めたい。今、私は、そういう風に考えている。

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