2010-04-04

『俳句』2010年4月号を読む 山口優夢

〔俳句総合誌を読む〕
僕の「これだけは伝えたいこと」  『俳句』2010年4月号を読む

山口優夢


特集 「挫折しないための六十代からの俳句入門」 p67-

俳句を始めようと考えたご年配の方がこういう文字に惹かれて角川俳句を手に取ることもあるのだろう。そうやって俳句をたしなむ人が増えるのならばそれはそれで悪いことではない。

その記事のうちの一つ、「これだけは伝えたいこと」というテーマで山尾玉藻さんが書かれている「それ、勘違いです」という記事に注目したい。

その冒頭にはこうある。

これまでの経験上、私が俳人と知ると大方の人は「高尚なことをなさっている」と言い、俳句を勧めると「難し過ぎる」「風流心が無いので」と急に逃げ腰となる。どうしてこうも俳句は誤解されるのだろう。

こういうこと、僕も一度ならず経験があるので、よく分かる。大学は理系に進んだもので、大学での友人も俳句と聞いただけでお手上げといった顔をする。「難し過ぎる」「風流心が無いので」というのは、単に角が立たぬようこちらの誘いを断るための体の良い言い訳に過ぎないだろう、と思っていた僕としては、山尾氏のようにその言葉に真剣に向き合ったことはなかったので、その勘違いを解こうとする山尾氏の姿勢は新鮮だった。

彼女は、世間が思っているのとは逆に、「決して高尚でも難しい内容でもなく、まして風雅の趣など微塵もない」句も存在しているということを示すため、

売春や鶏卵にある掌の温み 鈴木しづ子

を例に挙げる。僕としても、この句、嫌いではない。もちろん、「売春」という言葉に現れ出た女性性と「鶏卵」に象徴された命の誕生とが、やや性急に結びついて一句を成してしまっている点については、この句の底の浅さが見えてしまうように感じないではないし、「掌の温み」というのは比喩的に卵の温さを表しているのか、それとも実際に誰かが手に持った後の卵なのか、分かりにくい表現になっているということなど挙げれば傷はある句だが、それらは措くとしても、確かに高尚や風雅から遠い句の一典型ではあろう。

ただ、もしもこの句を僕の周りの俳句を知らない友達に見せた場合、返ってくるであろう言葉は予想がつく。
「これ、どういう意味なの?」
そりゃ、確かにそう思うのも無理はない。この句の面白さが伝わらない理由は、おそらく二点あって、
・「売春」と「鶏卵にある掌の温み」がどう関係するのかよく分からない。
・たとえば売春婦が鶏卵を手に持っているのかな、という場面までは想像したとしても、「だから何が面白いの」というところがよく分からない。

そこで、たとえば山尾氏がこの句を掲げた直後に置いている文章のような解説を施したとする。

戦後の混乱期、売春婦に身を落としながらも、何とか人の温もりにすがろうとする女性の哀しみと切なさが詠まれた一句である。(中略)この一句には人間の真実の情が滲み出ており、読者はそこに強く揺さぶられ共鳴するのである。

その説明を聞いたら、彼らも一応この句の面白さについて納得するであろう。そこで彼らが頷きながら言う言葉はおそらくこうだ。
「へぇー、そういう背景が分かるとこの句は深い句だって分かるんだね」

なんだか分からないけれど俳句っていうのは「深い」ものなんだなあ、と感じたとしたら、それは高尚や風雅と同じ、「自分にはそんなものは無理」という反応に容易に結びついてしまうだろう。僕は別に山尾玉藻氏のことを批判したいわけでも、俳句をやらない人を馬鹿にしているわけでもない。ただ、俳句の内側で使っている言葉が俳句の外側に通じるにはひどく困難がある、ということを言いたかったのである。

入門特集の場合、そういうことに留意することも俳句自身を見直すためにも必要なのかもしれない。




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