成分表35 心配
上田信治
「里」 2008年9月号より転載
演奏家の指が、小さな生き物のように、楽器の上をくるくると動くのを見ると「ああ、すばらしい指だ」と思うのだが、同時に「この指が、怪我でもしたらどうしよう」と思ってしまう。それは、自分の心のうしろめたい秘密である。
その全く不必要で不吉な考えが、演奏家に申し訳なく、クリスチャンでもないのに十字を切ってわびたくなる。「神様、悪いことを考えてしまってすいません、でも、どうしようあの指が怪我でもしたら」
知り合いの家の近くには、川が流れているのだが、彼女は子どもを抱いて橋を渡るたびに「この子を川に投げ込んでしまったら、どうしよう」と思うのだそうだ。
どうしようも何も、あなたさえ投げ込まなければいいわけだが、そういう心の動きについて「平穏な日常に裂け目を作りたい」とか「完璧なものを汚したい」という欲望と言ってみても、答になっていないだろう。
じゃあ、というので、自分の感じをゆっくりと味わい直してみると、たとえば吊り橋を渡るときすーっと気が遠くなる感じに似ているように思われ、そうしてみると、あれはある種の「高所恐怖」なのかもしれない。
われわれは、日常を通して、世界に触れている。世界も日常も、それ自体として「全きもの」である。
演奏家は、われわれの目の前で、「完全」性のイデアを演じてみせる。その演奏は、まるで世界のように日常のように、完全である。しかし、もし、その指を怪我でもしたら。
演奏家の演奏も、橋の上の赤ん坊も、あからさまに完全であり、そのことによって、この世界のもっとも脆い輪として、露出している。それは、吊り橋の板のすき間から「下」が見えている状態に似ている。
「下」が見えるとおそろしいので、すーっと気が遠くなるのだが、その感覚が生じた意味が自分でも分からない。そこで、いらない「心配」が、後づけのように作られる。そういうことなのではないか。
そういえば波多野爽波は、人が居並んでいると、自分がその真ん中へ「わーっ」と言って飛び出してしまうんじゃないかと、必死でその衝動をおさえたりするような人だったらしい。
人間みな、似たようなことを考える。そして、世界は、いつだってカンペキである。
卒業を見下ろしてをり屋上に 波多野爽波
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