〔新撰21の一句〕
越智友亮の一句
ローションではない……澤田和弥
水の辺に集まる蝶よ濡れなさい 越智友亮
十八歳は濡れている。
どのくらい濡れているかというと、
もうぐっしょぐしょのびっしょびしょである。
白いTシャツに真新しいジーンズ。
滴りの落ちる前髪からは
大人を拒絶しつつも大人へと変貌していく青年の瞳が
暗く輝いている。
濡れているのは水である。
これがローションだと意味が違ってきてしまうし、
灯油であれば新聞沙汰である。
あくまでも水。
ふくろうや夢に少女が濡れていた
ふくろうの声が聞こえてくる夢の中で少女は濡れていた。
この「濡れていた」は性的な意味ではなく、文字通り
水で濡れていたととりたい。「濡れていた」と言葉を発する
主人公は前述のようにすでにぐっしょぐしょに濡れている。
水の辺に集まる蝶よ濡れなさい
「濡れる」という共通項は、少女を主人公の同志にする。
だからこそ少女は主人公の夢に現れたのであり、
主人公もその夢を十七音に書き留めずにはいられなかった。
蝶たちに「濡れなさい」と命じる。これはすでに濡れている
主人公への同化を命じている。
集まり来る蝶と主人公は一体となり、大きな春のうねりとなる。
蝶はそのまま蝶ととっても美しいが、何らかの隠喩ともとれるだろう。
少なくとも休日の朝8時から「濡れる」だの「ぐっしょぐしょ」だの
とタイピングしている中年一年生の私を指していないことは確かなことだ。
作者の句には直接的に、または間接的に「水」がよく登場している。
水を若さの象徴とは言わない。
しかし水を客観視するのではなく、自らもぐっちょりと濡れ、
水と一体化したなかから言葉を紡いでいくことは
若者の特権であり、決して大人たちに譲ってはならない。
だからこそ『新撰21』のトップバッターに相応しい。
まさに名先鋒である。
万物は流転し、水は流れる。流れることを忘れた水は腐敗する。
次に挙げさせていただく一句は、
作者の内の清流が永遠に流れることを忘れない証左と
妄想したい。いや。考えたい。
初夏のみずのあじすることばかな
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2010-05-09
〔新撰21の一句〕越智友亮の一句 澤田和弥
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1 comments:
「澤田和弥フィルター」を通過すると、どんな俳句も、セクシャルな成分、エロティックな成分だけが濾過されて残るという事実に、いつも瞠目しています。
(少なくとも週俳で拝読する限りにおいては、すべて、この切り口ですよね、澤田さんは)
(ソレ系統にしか興味がおりでないのでしょうか? それとも、そういうキャラ設定?)
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