2010-07-04

〈年老いたデザイン〉を考えてみた〔後篇〕鈴木不意

〈年老いたデザイン〉を考えてみた 〔後篇〕

鈴木不意
承前


誰がデザインしたのか、しているのか

「俳誌サロン」(http://www.haisi.com)を見ると、枠で囲んだり、飾り罫をつけたり、季節のカットを入れて単調にならないようにそれなりに努力していることがうかがわれる。

まったく同じデザインはないけれど、どこか似た印象を受ける。共通して代表句は大きい文字の1行で1段組、一般句は小さい文字の2段組である。(「ホトトギス」の稲畑主宰の掲載句はとても多くてなんと3段組だが)A5判というサイズにある程度の文字サイズを考え効率良く多数の句を掲載するには2段組にするしかない。

一方、評論文、対談、吟行文などのいわゆる本文は、2段組、3段組となるのも自然な結果だろう。

こうしたレイアウト上の制約を考えると、逆に素人でもレイアウトができるということである。素人なりに見よう見まねでレイアウトはできる。文字数を調整して写真スペースを確保しておけば、吟行記などはそれなりに見せられるものになる。

現代の俳誌デザインは惰性のままに今日に至っているという感じだ。言葉は悪いが報告書的である。毎月発行するとなるとそうしたものになるのかもしれない。あの余裕のなさは編集に関わった人ならうなづけるだろう。型に流し込む作業で精いっぱいだ。

経済的な要因はどうだろうか。デザインを外部に依頼すれば結社にとって経済的な負担となる。そこで印刷会社と折衝して妥協できる範囲のデザインを採用する。リニューアルの場合は目先を少し変えただけのものになるので劇的な変化は期待出来ないだろう。いずれにしても妥協の産物としてのページとなる。そこにはデザイナーの痕跡は残らない。誰が作ったという証左の無さが現在の俳誌のスタイルだ。顔が見えるのは表紙だけだ。

所属している結社、同人誌は誰がデザインしたのか、誰がしているのか、そんなことも考えてみることも必要ではないか。

余計な事だが、何十周年とか00号記念パーティという記事をよく見るが、みな立派なホテルや施設で開催している。お金がないわけではなさそうだから節目のパーティのついでに、少しばかりの費用を誌面デザインに投資したらどうだろうか。

俳人はデザインを大事にしてきた

私が所属している「なんぢや」と「蒐」はともに同人誌だが、「なんぢや」の創刊前のデザイン作業は、どこかで見たことがあるようなレイアウトを避けることから始めた。そのデザインを考えるさい、おおいに刺激を受けていた書籍があった。

【カラー版】芭蕉、蕪村、一茶の世界  監修・雲英末雄 (美術出版社)2,500円

書店でもよく見かけられるので、ぜひ手にとっていただきたい一冊である。

副題に「近世俳諧、俳画の美」とあり、短冊、色紙、俳画、絵俳書をカラーで紹介し、わかりやすい解説文が私にはうれしかった。

デザインという視点からこの本を開けばいかに俳史における俳人達が作品に対して「読ませる」工夫を怠らなかったことがわかる。それは「読ませる」前の段階「見せる」ことへの工夫も含まれている。

紙に俳句を残すという表現において江戸時代のほうが平成の現代より、はるかにお洒落で遊び心という豊かなものを感じる。この豊かさが現在の俳誌には皆無と言っていい。見せ方のデザインだけでなく現代の俳句がどこか薄口に感じられるのは、その豊かさが希薄になっているせいではないかと思うことがある。

俳句、絵というと俳画を思い浮かべる。俳画の講座があるくらいだから、俳句と絵の両方が好きな人なら興味が湧くだろう。俳画ですぐに思い浮かぶのが紹介本にも登場する蕪村だ。

蕪村は求めに応じて芭蕉の「奥の細道」の屏風を何枚も描いたことは周知のとおりである。そのうちのひとつを見たことがある。山形美術館所蔵のものだったが、つくづく面白かった。例えばであるが、あの大きな屏風絵を写真に撮って各部分を切り取りよくある俳誌に縮小してレイアウトたらどうだろう。そんなことを考えてみたのである。

山形美術館
http://www.yamagata-art-museum.or.jp/ja/j_collec/j_collec.html

蕪村は画家で生計をたてていたプロだけれど、それにしても江戸時代の肉筆画、木版画のほうが面白いなんてどういうことだろう。

印刷の時代からオンデマンドそして電子書籍へ

明治期に入った印刷技術でそれまで以上に大量な複製物が可能となった。子規時代の印刷技術は当時のハイテクでもあった。貴重な「ほとゝぎす」1号が「ホトトギス」HPで閲覧できる。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/hototo/hototo01/01/01.htm

白紙に黒色の印字はもっともシンプルで俳句にふさわしいのかもしれないが、平成の世に「なんとかしようぜ!」という声も聞いたことがない。

編集部への投稿をeメールで受付けるところが増えてきた。身近な結社、同人誌ではほとんど郵送とeメールの両方で受付けているようだ。「なんぢや」の場合、投稿はeメール、校正作業はPDFで行っている。印刷はオンデマンド形式をとっている。

注意しておきたいのは、いわゆる印刷とオンデマンドはまったく別なものであるという点である。いわゆる印刷インクによる印刷ではない。コピーの機械による出力だ。オンデマンドはコピー出力のことなのに、どういうわけか「オンデマンドコピー」とはせず「オンデマンド印刷」という呼称が使われ、そのため通常の印刷形式と混同されてしまう。これは日本独特の現象だと聞いた。

少部数の冊子ならオンデマンドでそれなりのものができる。それなりとは半端な言い方だが、印刷インクのテクスチュアは捨てがたいものがあるからだ。品質は印刷のほうがはるかに上である。

アメリカやヨーロッパからのペーパー資料を手にしたときのこと、あきらかに印刷とオンデマンドを使う差異がわかった。「費用、数量、時間、用途」で使い分けているのだ。オンデマンドは安価だが品質は印刷に及ばない事を知っておいたほうがいい。

(身近なオンデマンド製品といえば名刺かもしれない。「費用、数量、時間、用途」の点で見合っているからだ。)

印刷形式に対してiPadの登場で電子書籍の参入が以前より盛り上がってきている。現在、私自身はiPadを必要としていないが、今後どうなるかわからない。欲しいという反面、いらないなあと思う。あれば使うだろうが、費用対効果に見合うものだろうか。使うとすれば上級機種が欲しい。すれば15万〜16万円はかかり、搭載したいアプリケーションがあればさらに費用がかさむ。(パソコン、インターネットと便利な技術に助けられているものの、ふりまわされていることもまた事実だ。)

編集部がんばれ

真鍋呉夫氏の『月魄』が第44回の蛇笏賞を受賞したこともあって、あらためて手にしてみた。作品の文字書体が普通と違うことは買った当初から気付いていたが、この機会にルーペで拡大してみた。文字の縁のカスレから最近作られた書体、さらに印刷方式ではないと思い奥付を見たら「本文活版印刷」とある。なるほどそうかと合点した。

本句集には雪女の句が多く出てくる。「雪」の雨冠の中のヨコ棒にうろこ(明朝体の漢字にあるヨコ棒末尾の小さな三角)がないから、そう古い活字ではないようだが全編を通して味わいのあるものになっている。

パソコンの書体ではこうはいかない。味わいのある活字がこのように健在なことは嬉しい。読めればどんな字体でもいいというのはどこか欠落している人の考えだ。真鍋氏に相応しい印刷形式の選択だと思う。

参考サイト:
http://www.flickr.com/photos/24853146@N03/sets/72157623337097037/

高橋睦朗氏が「選・文」をした『俳句』はデザインワークがきれいで、ときどきページを繰る。最近、安価な「新装版」(文庫本サイズ・内容はほとんど同じ)が出たのでこれまた購入した。
句と解説があり英訳付きなので、海外でも売れそうな気がする。
季節の写真と句・文章が交互に展開されていて、計算されたシンプルなデザインが心地よい。

俳句    (ピエ・ブックス)3,800円
俳句 新装版(ピエ・ブックス)1,600円
 http://www.piebooks.com/search/categories.php?SCID=102&PAGE=2

子規の四大随筆を座右の書としている人も多いと思う。

『病牀六尺』の解説で上田三四二は書いている。

新聞が子規の病状を心配して休載の日をつくったことがあった。
そのとき子規はこう訴えた。
「僕ノ今日の生命ハ『病牀六尺』ニアルノデス。毎朝寢起ニハ死ヌル程苦シイノデス。其中デ新聞ヲアケテ病牀六尺ヲ見ルト僅カニ蘇ルノデス。今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ。病牀六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ。ドーモタマリマセン。若シ出来ルナラ少シでも(半分デモ)載セテ戴イタラ命が助カリマス。」
——死を目の前にしてこの書くとへの執着、それが子規にとってとりもなおさず生きることへの意志であり、生きることの意味であった。
私の周囲に子規のような状況で投稿する人はいないが、投稿者にしてみれば病気、健康の違いはない。投稿したら自分の句、文章は印刷されたもので読みたい。総合誌、結社誌、同人誌の区別もないはずだ。

編集者とは投稿者の作品を「載せる」という以上の何かを考える立場の人である。手にした人に読ませるという積極的な仕掛けやデザインが生まれるのは、そうした意志によるのではないだろうか。

(了)

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