2010-08-29

『俳句界』2010年9月号を読む 関悦史

【俳誌を読む】
「注目の若手俳人10句競詠」鑑賞
『俳句界』2010年9月号を読む

関悦史


「俳句界」2010年9月号は「俳句で130歳まで長生き!」という敬老の日記念の長寿特集で、これは日野原重明へのインタビューが柱になっているが(日野原重明は今月の「俳句」にも登場している)、それとは別に若手4人を並べた「注目の若手俳人10句競詠」というミニ特集もあり、興味深い句が多い。



纜に金蠅つるむ真昼かな   堀本裕樹

浜昼顔海鳴りを身に引き受けむ

夕凪や琥珀のやうに帆の濡れて

海辺の景でまとめた10句。

1句目は実際にあり得る光景だが、真昼の金蠅の小さなギラつきと固く締まった纜(ともづな)の存在感との取り合わせが鮮明。水辺の生臭さも後から立ち上がる。

2句目も「引き受けむ」の主格が語り手とも取れるが、「浜昼顔」と取った方が浜昼顔の可憐さが引き立つ。

3句目の「夕凪」は黄昏時の無風状態。昼夜のあわいと、永遠不動の相をかりそめに帯びる物質「帆」との統合を、「琥珀」の喩えで形象化。



山の苔岩をおほへる端午かな   高柳克弘

新生児無表情なる海月かな

ラ・フランス縦割り救ひなき童話

1句目の「端午」は5月5日端午の節句の端午。男子の成長を祝う節句だが、由来を辿ると中国の詩人屈原入水の故事なども出てくる。この湿った岩はごく即物的に初夏の涼気をも感じさせるが、男子の成長云々と合わせると人格的大成の姿といったものを思わせる霊気も帯び、屈原まで思い合わせずとも、試練の如く立ちはだかる崇高なものとしての自然といった風合いでもある。「山の苔」は初心者には出にくい言い方だが、この「山の」が利く。「岩」が「山」とまさに一体化しようとしている変貌の神秘性がここから生じるのだ。

2句目も「新生児」を単に可愛いものとしては捉えていない。そもそも可愛いという捉え方をしようとしたら「新生児」の語は使うまいが、更に「無表情」であり「海月」である(「無表情なる」は「新生児」「海月」のどちらにもかかり得るが、元々顔のない海月を無表情と言う意味がこの句ではさしてないので「新生児」にかかると取る)。句の語り手は両者のイメージから抽出される生命体そのものを、宇宙を観測する如くに見ている。

3句目もズバッとした取り合わせが生きている。「ラ・フランス」が反映して西洋の童話を思わせ、「縦割り」の手応えある具象性と「救ひなき」とが響きあって、人の心や宿命の底を古来一貫して流れる恐ろしいものを指し示しつつ、句の姿全体としてはシンプルな構成の静物画のような端正さを得ているという佳句。



思考回路電子回路や蛍烏賊   冨田拓也

骨のみに恐竜聳(た)てり五月闇

うつすらと人々のゐる蛍かな

1句目は光りつつ群れ動くホタルイカの総体を思考回路に見立てたものか。ホタルイカ単体の脳神経系を、そのヒトとかけ離れた異生物感を言い表すために「電子回路」と言っているという解もあり得るが句の柄が小さくなる。ホタルイカの群れを「思考回路」として用いているものがあるとすれば、考えている主体はホタルイカ自身ではない。巨大で無人称な一つのシステムのような生動であろう。「電子回路」で結ばれ、インターネットで覆われた地球と同じく。

2句目。こちらは時間的にも体長的にもスケールの大きい生物と、それが今や「骨のみ」を残しているという非情の相を具体的な像のみから描いている。滅んだ巨大生物が奇妙な生気を帯びて語り手と対峙しているのは母胎めいた「五月闇」を共にしているからばかりではない。「骨のみに」の助詞「に」が利いて恐竜のが己の意思で立っているように見えるからで、「の」であればたちまちただの物に還ってしまい、何の交感も成り立たなくなる。

3句目。蛍よりも人々の方が幽(かそけ)きものとなっている。「蛍」に照らされ、「蛍」と時空をともにすることで、「人々」は生きながら無名の霊性に還元される。



さみだれに指らさまよい火らとなる   佐藤文香

花火打ち打つ ときに真顔のいのちくささ

塩素の水へ光は夏の意味で、まだ

今回の作は句読点を導入したり分かち書きを用いたりと積極的に破調を追求していて、しかもそれが堂に入っている句が多い。
 1句目は「指ら」がさまよっているが解体しきった身体の断片となっているわけではないようだ。言語で直接言い表すことの出来る次元を離れた根深い思いのようなものの彷徨を形象化しているようで、「指」が目の利かない闇の中で辺りを探る際、最も先端に出る部位であることを思い合わせれば、「探求」という要素も感じられる。「さみだれ」の中で燃え始める「火」はもちろん尋常の火ではない。「火ら」という複数形も異様だ。固体からプラズマ(火)に変じてもそれぞれ個体識別が出来る、この指=火たちの離れ離れの寂しさの感覚。元々この「指ら」は語り手一人のそれではなく、複数の人たちのもの、あるいは単数・複数の区別すら無意味になるような普遍性の心象の中をさまようそれなのだろう。「火」の情念が語り手一人の内面や自己愛に還元されて終わりになるものならば、読むに耐えない凡作となっていたはずだが、この句は不思議な時空へとはみ出している。
2句目は具象性が増してわかりやすいがちょっと類例の思いつかない言い方。「打ち打つ」のほとんど常同性の無感覚に陥りつつあるような行動の連続と、そこにふと差し挟まれる「ときに真顔」と我に返って判断力を試されるような瞬間の出現、その意識変化の瞬間に揺らめき出る生命感を「いのちくささ」と言いとめるという力業から成り立ちながら間然するところがない句。「くささ」が良い。

3句目はプールの水面に揺らめく初夏の日差しを捉えたものか。これも言い方が普通の写生句ではない。「くささ」がここでは「塩素」に転じる。無駄な正確さを追求しているわけではなく、抽象化された清潔な把握と生々しい感覚とを架橋する語として用いられる。「夏の意味で、まだ」の現代詩めいた言い回しが浮かずに済んでいるのも、元々言いたいことが身にたまっている作者の資質がおのずと探り当てた技巧であるためか。



この他、「俳句の未来人」コーナーには矢野玲奈、高遠朱音の2人が登場。

残る木に掠れつ夏木倒されし   矢野玲奈

蟻走る切株のまだ濡れてをり

併載された短文によると、最近作者は草刈のボランティアに参加したらしい。

読み下した瞬間に幻聴が走るような「掠れつ」や、蟻の走る切株の、倒されたばかりなのだろう湿り気の鮮烈さは手堅い写生句ならでは。


朝顔や火星の海図を広げる   高遠朱音

こちらは火星の地図ではなく「海図」というずらしと字足らずの野放図さとが「朝顔」に収斂され、そのイメージを賦活しているという悪球打ちじみた一句。


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