2010-08-15

『豈』第50号を読む 野口裕

【俳誌を読む】
『豈』第50号を読む

野口 裕


どうも落ち着いて読めない。『日経サイエンス』(2010年9月号)の時間論が気になる。以前、読んだ座標系に関するライプニッツの議論が絡んでいるような気がする。知人の高谷和幸の新しい詩集『ヴェジタブル・パーティ』も気になる。そう思うせいか、これも時間論として読めないこともない。と、あちこちよそ事が気になり、まとまった感想が出てこないが、それも『豈』の読後感らしいか、と思い直して漫然と書き進めることにする。


書き下ろし特別作品「これはたぶん」 中村安伸

句会に出せば高点句となるような句が多い。良いことなのか、歓迎されざることなのか。本人に何らかの自覚があるのか、前書付きの句があったり、連作があったりと変化をつけている。

  陶器になることを拒む一塊の土
  轆轤に置けばだらりと崩れ、
  窯で焼いても変質しない。
  そんな土塊たちは
  本州に点在してゐる。
  彼らは一日に数十センチメートルほどの速度で移動し、
  千年かけて
  富士山頂にたどり着く。

ある句の前書を行に区分して、自由詩のようにしてみた。最後の一行に、肝心の五七五が来るのだが、それが効いてくるかどうか。その一行は伏せておく。その他の句。

  海涼し日本をうすく描く少女
  純喫茶夏の光の捨てどころ
  凩や背骨あらはにピアノ弾く
  スキー術まづ重力を用意する
  切腹にたつぷり使ふ春の水
  利休忌の涙をこぼすスピーカー

書き下ろし特別作品「百人斬首」 関悦史

百人一首の百首すべてを五七五に仕立て直す、という趣向の百句。漢字とカタカナで書かれているが、欧米形の外来語はひらかなを用いている。趣向ゆえに句会の高点句となり得ない句が多く並ぶが、活字にした場合に返って光る句が出てくるのが趣向の不思議さ。

  ワガ魚ハ東南にヰテ蛆ノ山
  君紅瞳(アカメ)我ガ手転ガリユキテ雪

(アカメ)は、フリガナ。前句が荘子、後句が鬼太郎の目玉のオヤジを連想させる。音をもじる句は、別の意味世界を呼び寄せる。音は百人一首を借りつつ、意味は八方世界を旅してゆく。そして、旅の途中にほっと息を抜いたような句が、読者の脳内に棲みつく可能性を秘める。

  小倉あいすモ深雪ヘモドル時ヲ待ツ
  ワガ腕ハ沖ニアリ石ノ人トシテ


特集 21世紀を語ろう・10年目の検証

10年経た今世紀をふりかえり、残りの90年を占おうという趣旨の各人の文章を集めてある。若い頃、富士正晴の文章を読みすぎたせいか、ことあるごとに彼の小説のタイトル「どうなとなれ」が頭の中で響いて困る。こんな特集はなおさらのところがある。なんとか、目についたところを書いてみよう。


不変の力 牛田修嗣

尾崎放哉の引用句が< >で本文に、それ以外の引用句(芭蕉、岩田由美、橋本美代子、深見けん二、皆川盤水、森澄雄、山本洋子)が一行独立。ちょっと、気になった。


残された問い 小林貴子

季語の「本意」と実体とのギャップを通して、飯島晴子における言葉の戦いを論じている。「本意」というものは、季語でなくともあるかもしれないなあ、などととりとめない感想を抱いた。


  介護犬の最期を看取るロボット犬(渡辺隆夫)



横書き俳句への危惧 中岡毅雄

縦書きの始まりは竹簡、横書きの始まりは石碑、と考えられる。横書きにした竹簡を読むのは大変だろうし、石碑を縦書きにしろと言われたら、上下運動で大方の石工は腰痛持ちになるだろう。

縦書きの長い歴史から、縦書きに適した書体が洗練されてゆき、それが縦組みの活字にうけつがれていった。それをほぼそのままの活字で横に組むのだから、違和感はあるはずだ。

とはいえ、大げさに言うなら、ことは文明の衝突の一事象に属する。そう簡単には片づかないだろう。


   ∫f(t)dt 遅日かな(野口裕)

拙句、「インテグラルエフティーディーティーちじつかな」と読んでください。


21世紀末の「芭蕉くん」(倉阪鬼一郎)

補足を一つ。『将棋ソフトはついに名人を破った。前世紀のチェスに続く快挙である。』とあるが、20世紀末の時点でコンピューターがチェスの世界チャンピオンを破ったかどうかは微妙な問題を含む。

wikipedia ガルリ・カスパロフ

ウィキペディアには書かれていないが、「将棋世界」に載った彼のインタビューによると、ディープ・ブルーのプログラムは対戦の最中に細かなチューニングを施された形跡があるらしい。カスパロフにすれば、Aだと思って対戦していた相手が、途中からA'に変わっていたことになる。これがはたして、正当な戦いであったかどうか…。

この手の人工知能論としては、スタニスワフ・レムの『虚数』に登場する、「GOLEM XIV」(ちなみに、タイトルは横組、本文縦組の活字となっている)が多数の問題を含んで面白い。

軍事面を任せるために開発された人工知能が、バージョンアップを繰り返していくと深い思索におちいり、ついに軍事面の指揮を放棄して思索に専念するようになるのだ。人工知能を試すテストとして、チューリング・テストというものがあるが、

wikipedia チューリング・テスト

チューリング・テストと逆に、人間と対話が成立しても、人間ははたしてものを考えているのかどうかを人工知能の側が疑ってしまうところまで行き着く。「新・第二芸術論」は人間が唱えることになっているが、「芭蕉くん」が唱えても不思議はない。そして、本物の芭蕉が引きこもり同然で深川に隠棲したように、「芭蕉くん」も沈黙を守る時期があってもよさそうだ。


特集「豈」創刊30周年・初期同人が語る「豈」

「豈」以前・以降譚(山崎十生)

記憶にとどめて良いと思われる文章が後半にある。以下、写す。
攝津幸彦は、結社で修行してきた俳人を極度に恐れていた節がある。それは、攝津幸彦の俳句的出自とは全く違う世界の作家だからである。新しい作家として任じていた攝津幸彦は、新しい作家として目されてきた書き手を乗り越えてきた。しかし、その反面伝統的な結社で育った作家に対して、彼の内には、ある意味で苦手な部分があった。またそれを超克するだけの器用さを攝津幸彦は持ち合わせていなかった。攝津幸彦が器用であったなら、決して、今日まで語り続けられることはなかった筈である。攝津幸彦が今も生きていたならば、今日の伝統的な結社で育った作家に恐さを抱くことはないであろう。恐い作家などいない筈で、いるとすれば、それは攝津幸彦自身であろう。
生きていたならば、なぜ彼は恐さを抱かなくなったのだろうか。深読みすれば、今日新しい作家は存在せず、結社はその役割を終えている、ということになる。まあ、たぶん読みすぎだろう。

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