2010-09-26

真説温泉あんま芸者 第6回 旅する眼 エキゾチック・ジャパンの表層

真説温泉あんま芸者
第6回  
旅する眼エキゾチック・ジャパンの表層

さいばら天気



まえまえから大きな興味を抱いていることがあります。外国人の目を通して見た「日本」は、なぜあんなに不思議な雰囲気、不思議な空気を帯びるのだろう?ということです。

あ、例によって、よもやま話です。

簡単に言えば「エキゾチックな日本」がそこにある。ご承知のとおり、そんなことは当たり前のことで、郷ひろみが「エキゾチック・ジャパ~ン!」と唄った昔から、みなさんがご存じのことです。

一方、外国人の誤解や誇張(あるいは蔑視?)が生み出す「ヘンテコリンな日本」も、話のネタとしておなじみです。アメリカ映画の中の日本料理店や007映画の中の忍者が、わかりやすい例ですよね。

でも、それはそれとして、もうすこし微妙な不思議が、やはり残ってしまうのです。それを強く意識したのは、ボブ・ディラン(1941 -)のPV(プロモーションビデオ)を観たときのことでした。

では、それを観ていただきましょう。1985年、東京・六本木をもっぱらのロケ地に、監督はポール・シュレーダーが務めています。5分17秒あります。ゆっくりお楽しみください。

Bob Dylan - Tight Connection to My Heart

いかがでしたか。

いまでは「おっかさん」といった役回りの倍賞美津子が、クラブの美人ママ(マダム・バタフライ!)を演じているところなど、おっ!という感じですよね。ま、それは枝葉の話だから、置いておくとして。

極端な誇張や誤解はありません。ヤクザや警官が類型的な描かれ方をしていますが、戯画化の範疇に収まり、それほど「トンデモ」な日本、「トンデモ」な東京というわけではありません。ポール・シュレーダーは親日家として知られる脚本家・映画監督ですから、日本人が観て大笑いするような無知、あるいは目を背けたくなるような曲解は入ってこないのでしょう。

まあまあ、自然な作り。それどころか、1985年当時の東京の雰囲気をよく伝えているとも言えます。

ヴィデオの冒頭に出てくる「六本木WAVE」は、1983年オープン、1999年には閉店したレコード店。チェーン店がいまも日本各地にあるようですが、「六本木WAVE」は、当時、ちょっと特別な存在でした。簡単にいえば、最もオシャレなレコード店。80年代、ポップ・ミュージックを聴いていた人が「新しい音」を求めて、文字どおりオルタナティヴロックや民族音楽、ラテン音楽、前衛音楽など、幅広く分野に食指を伸ばす行動様式がありましたが、そのニーズに応えてくれるレコード店のひとつが「六本木WAVE」でした(「渋谷系」と呼ばれるオシャレ音楽が勃興するのは、90年代に入ってからです)。

ボブ・ディランが泊まっているのは「六本木プリンスホテル」(1984年開業、2006年営業終了)。当時、ホテルの格とは別に、ちょっと特別な価値を持ったホテルでした(バブルなゴージャス感といえばいいでしょうか。残念ながら利用していたわけではないのでうまく言えませんが、夜、六本木プリンスのプールで泳ぐのが、チャラチャラ・ピカピカした遊興の象徴みたいな感じ)。

ボブ・ディランがバンドをバックに歌っているのは「六本木ピットイン」(1977年開業)。これももうないのですね(2004年閉店)。

ほかの盛り場など、私にはわかりませんが、詳しい方(当時あのへんで遊んでいた人)なら、「あの店はあれだ」などと、ディテールを懐かしむこともできるでしょう。

といったように、この5分17秒のPVは、1985年当時のあのあたりの風景をちりばめ、類型的(東京みやげ・六本木みやげ的)ではあるものの、当時の空気を生き生きと伝えるものではあると思うのです。

ところが、それでもやはり、私たちネイティブが1985年に見ていた東京とは、また別の東京を、この5分17秒からは感じてしまいます。



虚構だから当然? いいえ、そうでもない。日本人監督が、ボブ・ディランやアメリカ人俳優を使って撮影して、こうなるだろうかと想像すると、どうしても、そうは思えないのです。

このことには、シンプルな答えも用意されています。「旅行者の眼」は、「生活者の眼」とは違う。違う目で見れば、同じ風景も異なって見える、というもの。旅する人の眼は、そこで暮らす人の眼とは違ったものを見出すはずです。旅する場所が「異文化」なら、なおさらです。事物がすべてエキゾチックな風合いを帯びるのでしょう。

ただ、そうだとしても、フィルム(あるいはヴィデオ?)という具体的な物質、具体的な情報記憶装置に定着した映像に、はっきりと「旅行者の眼」が反映するという事実は、当たり前と思う半面、たいへん興味深いことではあります。



例えば、生活者にとっては日常的でありふれたもの、親しく近しいものでも、旅行者には、非日常的で稀有なもの、縁遠いものとなります。ヴィデオカメラで何を撮影するか、物語のなかに何を取り込むか。選択の問題として、旅行者は、旅行者しか選び取らないものを選ぶ。

このあたりは、むりやり、俳句に結びつけることもできます。

良き俳人はしばしば、私たちがふだんから眼にしている事物を、それがあたかも事件であるかのような描き方をしてみせてくれます。誰も眼を向けなかった事物が、彼らによって、新しい価値を与えられ、ドラマチックに、あるいは、かけがえのない貴重なものであるかのように輝いて見えたりします。

その意味では、良き俳人とは、誰もが見知っている場所を旅するように歩き、眺め、対象を呑み込み、私たちが知っている事物や風景とはまた別の風合いを帯びた、新しい事物、新しい風景として提示してくれる人たちなのかもしれません。何かを描くという意味においては〔註1

とすると、良き俳人とは、異人なのかもしれません。



話を戻しましょう(俳句は寄り道でした)。

何を見るのかという対象の選択の問題が、ごくシンプルに、エキゾチックな景色に関わっている。これは言えると思うのですが、一方で、「旅する眼」そのものにも、なにがしかのことを思ってしまいます。つまり眼に映る対象ではなく、眼という主体の問題。

ボブ・ディランの5分17秒のPVに感じるのは、ある種の感傷です。

異国で奇異なものを眼にして、それらに興奮するというよりは、なんだかしんみりとしてしまいます。

簡単に言えば、旅愁。

(ああ、簡単すぎる!)でも、実際、旅する眼には、ホテルのシーツも、飲み屋横丁の灯も、ネオンサインも、眼鏡の警官も、ヤクザの横顔も、どれもが愁いのようなものを帯びて映るようです。

旅する人は、その土地で、ひとり、ストレンジャーな気分になるからでしょう。

私が最初に感じた「外国人の目を通して見た日本は、なぜあんなに不思議な雰囲気、不思議な空気を帯びるのか」という問いの答えには、彼がストレンジャーだから、ということもあるのだと思います。

異国で留置されたボブ・ディラン(登場人物)は、きっと不安、ストレンジャーとしての不安にさいなまれたはずです。

(留置所から出てきて、女性ふたりとハグしたときの安堵。女性はやはり「帰るところ」なのでしょうか。などと性差主義者的な物言い)



東京を旅する外国人の旅愁ということでは、最近、手にした『東京日記 リチャード・ブローティガン詩集』(思潮社・1992年・福間健二訳)〔註2にも、同様のものを感じました。

リチャード・ブローティガン(1935 – 1984)が1976年5月、日本を訪れた際の出来事が、数十篇の詩にまとめられているのですが、どれも、書名のとおり日記のような詩です。

3篇、引いてみます(原詩はインターネットで採取)。



パチンコ・サムライ

すばらしく、元気が出てきて、子どもになったみたいな、
   文句なしの気分だ

カニ*の缶詰二つと機関車**一台を
   ぼくはせしめたのだ

一九七六年五月十八日、東京で
   人はこれ以上のものを望めるだろうか?

パチンコ/縦型ピンポール/
の勝負をしたのだ
ぼくの刀はよく切れた

〔原註〕
* 本物
** おもちゃ


"Pachinko Samurai"

I feel wonderful, exhilarated, child-like,
perfect.

I just won two cans of crab meat*
and a locomotive**

What more could anyone ask for on May 18,
1976 in Tokyo?

I played the game of pachinko
/ vertical pinball /
My blade was sharp.

*real
**toy



ミステリー物語もしくは当世風ダシール・ハメット

ここ東京では
   ホテルの部屋を出るときにいつも
きまった四つのことをする
   ぼくのパスポート
   ぼくの手帳
   ペン
   そしてぼくの英和辞典
   をもっているかどうか確かめるのだ

人生のほかの部分は完全な謎である

東京
一九七六年五月二十六日


"A Mystery Story of Dashiell Hammett a la Mode"

Every time I leave my hotel room
here in Tokyo
I do the same four things:
I make sure I have my passport
my notebook
a pen
and my English–
Japanese dictionary.

The rest of life is a total mystery.

Tokyo
May 26, 1976



昼を夜にして

東京の夜明けの中を
タクシーがぼくを連れて帰る
ぼくは夜じゅう起きていた
太陽がのぼるまえにぼくは
   眠っているだろう
ぼくは昼じゅう眠る
タクシーが枕で
街路が毛布
夜明けがぼくのベッドなんだ
タクシーはぼくの頭を休ませる
ぼくは夢にむかう途中だ

東京
一九七六年六月一日


"Day for Night"

The cab takes me home
through the Tokyo dawn.
I have been awake all night.
I will be asleep before the sun
rises.
I will sleep all day.
The cab is a pillow,
the streets are blankets,
the dawn is my bed.
The cab rests my head.
I'm on my way to dreams.

Tokyo
June 1, 1976



どうですか。私には、おもしろい詩でした。

日記かメモのようで、韻文とは言い難い。けれども、翻訳の手柄もあるのでしょう、哀しさを感じてしまいます。といっても、陰鬱ではない。なんだか明るく透明な哀感です。

私たちにはなじみのある東京という町で、ひとり、「ストレンジャー」として過ごしたブローティガンの眼に映る東京は、やはり、私たちが知っている東京とは、また別の東京のような気がします。


〔註1「何かを描くにおいては」などと但し書きを付けるのは、描くだけが俳句ではないと思うので。
〔註2著者ブローティガンの日本への思いについて歴史的に語られた「はじめに」は、詩篇とは別にきわめて興味深い。1941年、太平洋戦争開戦時、ブローティガンは、6歳。「ぼくは戦争ごっこで何千人もの日本兵を殺した」とあるように、日本は、彼にとって憎悪の対象だった。年を経るにしたがい、その感情は変化していくのだが、その変遷を辿る「はじめに」は17ページにわたる。