【週刊俳句時評 第14回】
「問、AとB、2句のうちから優れていると思うものを選び、その理由を述べよ(制限時間・一生、∞点満点)」
関 悦史
今週は用事が重なった上に体調もよろしくなかったもので、この時評も休載にさせてもらおうかと思ったのだが、ツイッターでいうところの「拡散希望」に相当する話題をひとつ抱えていたのを思い出した。その紹介だけしておくことにする。
去る10月2日、「天為」の20周年記念大会が盛大に行なわれた。
以下はその日のシンポジウムで西村我尼吾氏がパネラーに投げかけた問いである。
登壇したのは、「天為」から岸本尚毅・仙田洋子・日原傳、外部から神野紗希・藤田哲史の各氏及び私の計6名。
誰がどう答えたか、当日の模様はいずれ「天為」に載るらしいが、「拡散希望」なのはそちらではなく、この一連の問いかけ自体である。これは今回の企画に智恵を絞った我尼吾氏の労作で、一連の問いに順番に答えていくと、その人の俳句観が大体見えてくるように組み上げてられているのだ。
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1. かつて宗左近は俳人、詩人を集めて、Ⅰ、Ⅱの句を題材に俳句の本質を問いました。
各スピーカーは以下のⅠ、Ⅱについて、それぞれAまたはBどちらの句を選ぶか俳句の優劣(必ずつける)を自己の俳句観を基礎として述べてください。
Ⅰ A 明ぼのやしら魚しろきこと一寸
B 海くれて鴨のこゑほのかに白し
Ⅱ A 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
B 爛々と昼の星見え菌生え
以上の立場を明らかにしたうえで次の句の評価をしてください。
一月の川一月の谷の中
2. 以上の議論により各スピーカーの俳句への基本スタンスを明らかにしたうえで
①「虚にいて実を行う」ということに対しての自らの考え方を述べたうえで自己の代表句を自解してください。
②俳句における「新しみ」とは何か。
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言うまでもあるまいが、念のためにそれぞれの作者を記しておけば、1. のⅠ「明ぼのや」「海くれて」はどちらも芭蕉、Ⅱの「柿くへば」「爛々と」はそれぞれ子規と虚子、「一月の」は飯田龍太である。
パネラーの発言が一通り終わった後で我尼吾氏から質問の意図が明かされた。
Ⅰの「明ぼのや」「海くれて」の組み合わせは「写生」をどう捉えるか、Ⅱの「柿くへば」「爛々と」の組み合わせは、俳諧における発句と平句(「爛々と」は句中に切れがない)が明治以降両方「俳句」に収まってしまった事態をどう捉えるかを問うのが狙いであったらしい。
2. の①「虚にいて実を行う」は各務支考が伝えた芭蕉のものとされる言葉だが、この日は芭蕉の真意や、どういう状況で上掲の2句が詠まれたかといった訓詁注釈的な話は飛ばし、パネラー各人が実作者としてこれらの言葉、句の組み合わせをどう受け止めるかが主に問われた。
(さらに二次会の席で我尼吾氏から明かされたところでは、1. の「明ぼのや」「海くれて」に関しては、2005年に加美で行なわれたシンポジウムでそっくり同じテーマが話し合われたことがあるという。
そのときのパネラーは、俳人から西村我尼吾・本田幸信・筑紫磐井、詩人から尾花仙朔・笠井嗣夫・米屋猛、司会が高野ムツオの各氏。
その模様がそっくり収録された北溟社『詩歌句』2006年春号の当該頁コピーを我尼吾さんが持参していたので拝借し、直ちにパソコンに取り込んだが、そちらのシンポジウムでは芭蕉の句を詠まれた現場や連句の文脈に戻す等の、国文学研究的手続きを踏まえた読み込みが展開されている)。
これらに一体どう答えるか。登壇したパネラー6名に限らず、ことに若手俳人に考えてもらいたいというのが俳句の伝道師たる我尼吾さんの意向だった。
設問2. の②《俳句における「新しみ」とは何か》については「とは何か」がつくと哲学・形而上学と化してしまう上、「新しみ」自体が状況に対する関数というところもあるから、真正面から答えると却って非生産的にもなりかねない。今どうすることが有効かと問いを変形させる立場や、それ以前に俳句に「新しみ」など必要ないという立場もあり得る。
設問1. に関しても、それぞれの句の組み合わせから浮上する対立・照応軸は「写生」や「発句性」ばかりではないもちろんなく、答える側各人の関心に応じて切口は幾らでも出てくるはずだ。
研究者ではなく、俳句を作る者の立場で答えるとしても、例えば芭蕉の言葉を訓詁注釈的な領域まで踏まえた上で己の内界と照らし合わせるべきだとするか、単なる引用・カットアップの素材たるガラクタと見なすか、はたまた抽象化された公式・公理の如きものと見なしてその応用範囲を探るか(当日の私の答え方はこれだった)とこれもまた色々なスタンスがあり得る。
興味のある向きは、自分ならばどう応答するかを考えてみていただきたい。漠然と抱いていた俳句観をある方向から照らし出したレントゲン写真のごときものが得られるかもしれない。
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2010-10-17
【週刊俳句時評 第14回】 関悦史
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4 comments:
若手俳人ではないですが。
設問1. Ⅰは、A「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」を優とします。好みの問題かもしれませんが、Bの「鴨のこゑほのかに白し」は、現代の人が作ったら、うまいこと言ったねという「言いなし」のレベル。Aには、造化の不思議(と、それが浮かび上がる瞬間)という、すり減らないワンダーがあると思う。
Ⅱは、A「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を優とします。Bも異常感覚の世界を描いたスゴイ句だと思いますが、ちょっと演出過剰かもしれない。Aは、世界の偶然性・無意味性にじかに触れているような句で、やはり、すり減らないワンダーがある。
ということは、自分は、ことばが驚異の世界にふれることを、俳句の価値としている、のかもしれない、と、とりあえず言ってみる。←自己の俳句観
「一月の川一月の谷の中」は、空間を、運動がつらぬいていて、その全体に時間が「二重焼き」されている、という…よく分からないですけど、古代の学者が考えた宇宙の模型のような句で、ワンダーです。
設問2. ①略 ②新しく「ない」ものを書くとパクリになってしまうので、作品は(受け手が先行作品を知悉しているという前提で)、それ以前と「違うように」書かれなければならない。
同時に、全ての表現が「新しくなければならない」とも思えない(それは、あまりに抑圧的)。
昔の人が書いたものにも新しいものはあるし(今週号の池内友次郎とか)、今の人が書くもののなかにも、古いものはあるだろう。つまりそれは、良し悪しではなく、パラダイムの問題。
私たちはみな「新しい」人なので、書くものは「それなり」に新しいのだろうと、楽観している。
34歳は若手かしら。
同じくAとAです。
【一月の川一月の谷の中】
縦書きにして音読してみて良いと思えないひとを俳人とは思えません。
設問1の答えのみ。
どちらもBが優。
「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」は写生が深くなく、認識のレベルがまだ低い。「しろきこと一寸」は季語の本意に含まれる。
同じ題材なら中原道夫の「白魚のさかなたること略しけり」の方が深い。
「海くれて鴨のこゑほのかに白し」は一度情景を頭の中に取り込み、自分の感じた心情としてイメージを「写生」している。しかも音を色であらわす共感覚がある。言い換えれば、Bは主観の度合いがAより強いが、イメージの捉え方がうまく(省略がきいている)、「鴨」の本意も捉えており、宜しい。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は客観写生のふりをした駄目句。元々は東大寺だったそうだし(笑)、柿と鐘のシンクロがいかにも嘘っぽいし、同じ嘘をつくなら、柿を齧った瞬間(柿を食っているとき、という漠然とした間でなく)に限定して、意外感を出すべき。この程度の句や表現では、読者を感動させる認識がない。しかも「柿」の本意が活きておらず、柿でなくても成立する(寺の名前も同じく、動く)。
「爛々と昼の星見え菌生え」は当時としては最高に斬新。これは、空想でなく、超感覚的(超現実的な)感性による現実の把握である。茸の生えるかそけさや不気味さという季語の本意に対する虚子の認識が余すことなく表現されている。好き嫌いはあるだろうが、逸品。
こういう作品や「棒」の句も堂々と残した大虚子に比べたら、彼のフォロワーたちの小ぶりな事(=虚子の写生や花鳥諷詠の側面しか理解していない)。
「一月の川一月の谷の中」は龍太の句の中でも最高傑作のひとつ。龍太の句は季語の本意(伝統的な意味や使用法)を無視して、眼前の季そのものを卓越した技術で句にしていたため、都会に住んでいたら大成しなかったであろう。都会の若者にはわかりにくい、という批判がある。しかし、「一月」の句は、見た目の絶妙の表記も見事だが、季語のそのものの本意を引き出している句であり、普遍性+不変性がある。
人間誰でも、自分を若手と思えば若手、老人と思えば老人...
さて、
Ⅰは優劣をつけることに何の意味も見出せない。なぜならどちらも同質の句であるから。
A 上五はア母音で始まりア母音で終わる。
そのあとは「しら魚」のシ、「しろき」のシ、「一寸」のイとイ頭韻が3回繰り返される。
B 「海くれて」はウ母音が2回、「鴨のこゑほのか」はオ母音が5回、「に白し」はイ母音が3回繰り返される。
どちらも、音韻転換の技巧を駆使するところに眼目がある句。質問者がAとBを異種の句だと思っているとすれば、質問の意図が句の意味内容にとらわれすぎていて問題。
Ⅱ はB。想像力の範囲に差がある。
ただし、Aが「カ」音の句頭韻を使った句であることはマブソン青眼氏が指摘しており、留意が必要。
なお、「切れ」は「切れ字」の使用の有無によって保証されるものではない。
「一月の川」の句、龍太らしいヌケヌケと言い切った作。(賛辞です)
ただし私自身は、この句とは違う方向を目指している。
2-(2) 新しみのない俳句は詩ではない。詩のない俳句はただの雑文の破片。
ただし、「新しい」ということと「他の作品からの引用を認めない」ということは別物。違う言いかたをするならば、俳句は百パーセント斬新でなければならないけれども、百パーセントのオリジナル性が必要なわけではない。この点を混同しないことが大切。
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