2010-10-31

テキスト版 2010落選展 小池康生 忘れ荷

忘れ荷  小池康生

しばらくは海のしたたる大旦           
薄氷の光りを空に投げにけり         
鶯は咽喉のなかに湖ひろぐ          
はまぐりの幸せさうなものを選る       
雛祭一口大のいとほしく           
濡れてゐる渇いてゐるやつくづくし       
カーテンを吊らぬ部屋より卒業す       
あたたかや予備の釦はシャツの裏       
燕来る「元い」と言ふが口癖で        
花言葉聴こゆるやうに種を振る         
朧夜に鶴の折り目の鋭かり         
青空を指先に割る石鹸玉           
苗木市胸の高さを探しけり           
桜貝かがむ姿の美しく           
目借時水を破らずすすむ舟         
忘れ荷や白詰草に守られて         
天からも地からも夏の寄り来たる      
かたつむりよりもゆつくりあゆむ木々    
いかにして蠅捕紙をあの高み       
打ち水の打ちしかたちのまま昏るる     
地べたより生えてゐるなり蟇        
絢爛な背徳ありぬアマリリス        
滝までは軽装馬車に揺られをり       
蚊遣香まあるくまるくあやめたる      
水馬溺れたき日はあるまいか       
この家のシャワーの癖を思ひ出す        
さくらんぼ夜明けのやうに酸つぱくて    
浮いてこい水のどこかが曲がらうと    
老鶯や数行戻り読みなほす         
みどり児を構ふでもなく生身魂     
それぞれにたれか亡くせし踊の輪     
下り簗没日のやうに月出でて        
少年は啄木鳥きれいごとを言ふ     
舗道濡れ秋灯坂を駈けのぼる       
目瞑りて飛んでゐるなり渡り鳥       
新蕎麦や痩雲風を追ひたてる        
夕しぐれ魚にするとだけ決めて         
冬日差す枝整へる脚立にも           
かいつぶり沈みし星を見にゆかむ        
冬ぬくし鳩の匂ひのする男           
散りぢりの己寄り来る日向ぼこ          
をちこちに風の鳴りたる冬の川         
白鳥は首がもつとも重たさう           
風花やこころ澄むとき死んでゆく        
吹雪の夜名言集を破りとる           
漏れてゐる器と知らず年の暮          
セーターに赤の他人の凭れくる        
便箋を一枚加ゆ深雪晴            
凍蝶や日は断崖を真つぷたつ          
除夜の鐘なんでもかでも壁に貼る        

3 comments:

ほうじちゃ さんのコメント...

「銀化」的な句と伝統的な句が半々。予選を突破してもおかしくないレベルです。

編集部が、喩を駆使した「銀化」的な句を理解できたかどうかが疑問です。同じ結社からの応募も他にあったので、刎ねられてしまったのでは……。

「目借時」・「蚊遣香」・「浮いてこい」が好きです。

上田信治 さんのコメント...

〈この家のシャワーの癖を思ひ出す〉と、だけ言って、いろいろ事情を考えさせる。〈カーテンを吊らぬ部屋より卒業す〉も、そう。大人の人事句。

〈はまぐりの幸せさうなものを選る〉〈夕しぐれ魚にするとだけ決めて〉買い物の句に、かすかな不幸のかおり、というか、自己劇化が加わって、うっすらと複雑。

〈燕来る「元い」と言ふが口癖で〉「元い」は軍隊用語(インテリはあまり使いません)。だからこれは、そういう年長者がいたという回想の句(自分の口癖だったとしても)。というわけで、青春をおもわせる〈燕来る〉が、ちょっと効く。

〈青空を指先に割る石鹸玉〉〈忘れ荷や白詰草に守られて〉あっさり技巧を効かした叙情味。

大人であって、枯れていない、作者のいわゆる「人(にん)」を生かした一連。

中嶋憲武 さんのコメント...

夕しぐれ魚にするとだけ決めて  

父は浮気をしているらしい。母は夕方になると、台所で水割りばかり飲んでいる。母もわたしも、父の浮気の件については何も語らない。お父さん、帰って来ないねと言うばかりだ。一週間も帰って来ないことも、わりとある。最初は仕事が忙しいのかと思っていた。

母とわたしが、父が帰って来ないのは仕事のせいではなくて、他に帰る家があるからではないかと思い始めたのは、母が一枚の白い下着を見つけてからだ。これ、お父さんの?と言って母がわたしに見せた下着は、丸首タイプのものではなくて、ヘインズのTシャツだった。父はお洒落などとんと無頓着で、着るものはすべて、母に任せていたのだ。 

居間のラジオが四時を告げた。ごはん、何にしようかと母が言った。そうだねえとわたしは、外を眺めながら言った。きのう肉だったから、魚かな。魚ねえと母は言って水割りをひと口。そうだねえと、ぽつぽつと降り出した天気雨に向かってわたしは呟いた。