2010-10-10

フェイク俳句について

フェイク俳句について

上田信治


前号の記事で、澤田和弥さん、すずきみのるさん、さいばら天気さんの作品から「フェイク俳句」というフレーズを思いついた。

編集的立場にあるものとして、いただいた作品を、そういう言い方で呼びっぱなしというのは、たいへん失礼だった気もするので、そのとき頭をよぎったことについて、もうすこし説明したいと、思っていた。

と、その後、ツイッター上で、その周辺のやりとりがあった。@kono_sakiさんのつぶやきは、フェイクと関係ないのだが、ちょうど、自分が考えていることとクロスするところがあったので、すこし応答した。
(ちょっと刈り込み気味のまとめ「俳句ーフェイクー窓ガラス」

まとめの冒頭で、@10_keyさんが「俳句は虚構」と言っているが、たしかに、自分が「フェイク」と感じたそれは、俳句と、その虚構性に関連してのことだった。


1.ジョン・ルーリーのthe lounge lizards



「フェイクジャズ」というのは、ジョン・ルーリーが自分で名乗りだしたのだそうで、聞いてみるとたしかに、上と下が絡まってこないかんじで、あまりジャズっぽくない。

これはどうも、わざわざ、こうやりたくてやっているらしい。メロディラインが「ニューウェーブ」っぽいのも、ズートスーツも、同時期のライブ映像を見ると俄然ジャズであるのも、おそらくそういうことで、どうも、この人達は、既成のジャズ概念の周縁に一廻り広く線引きし、「フェイク」という言い方で居場所を作っている

それは、ルーリーさんの含羞でもあり、戦略でもあったろう。


2.私小説と作者の信用

以前、松本侑子という作家の雑誌連載小説を、作者の私小説だと思って楽しく読んでいたら、連載中盤以降、どんどん「お話」になっていって、びみょうに失望したということがあった。

新聞記事を読んでいたはずが、クロレラの広告にすりかわったような裏切られ感があって、小説なのだから、嘘で本当でもいいはずなのだが、自分がほんとうに嘘をつかれたようにガッカリしていることが、われながら奇妙だった。

でも、じっさい「これが嘘だったら何の書く意味があるのだ」と思わせるような、言い方は悪いが、長大な綴り方のような書き物だったのですよ。つまり「それが本当の話だ」という約束「ありき」で成立する、作品との関係があるんじゃないか、という話で。

また、ある短歌の新人賞の選考座談会で「この作者は信用できるか」ということが、熱く論じ合われているのを読んだことがある。

短歌が、私小説のように、本当に作者の身に起こったことを書くのが原則ということもないと思うのだが、連載小説に肩透かしを食らった自分と同じで、短歌の人たちも「嘘をつかれてはたまらない」という気持ちがあるのかもしれない。

では、俳句は? 


3.近代的リアリズムの理想

正岡子規による俳句・短歌の革新、写生文の提唱は、子規本人の「言文一致を余り好まぬ」という嗜好にもかかわらず、近代日本の文章語の成立に、大きな役割を果たした、という見方がある。

明治20年代の二葉亭四迷に代表される、話者による語りの「上演性」から、明治30年代以降の、透明な文体による「現前性(という虚構)」への変化にあって、「俳句」「写生」は、それを、ときに先導し、伴走したのだ、と。(絓秀実『日本近代文学の〈誕生〉』1995)

そして俳句の言葉は子規の理想の内に、すなわち、その短さによって獲得した、極端な透明性と現前性の理想の内に、今もある。

それは、「写生」句に限ったことではなく、たとえば阿部完市のような言葉俳句にしても同じことで、氏の蒸鰈のエピソードを知ってみると、あの人は、あの不思議な言葉から生まれる不思議な現実を、「遡行的に」写し取っているつもりだったに、違いないと思うのだ。


4. ロラン・バルトの写真論と俳句

バルトの写真論に現れる用語「プンクトゥム」は、論中で「ストゥディウム」と対になる言葉で、「プンクトゥム」は「点」「突く」「穴」、「ストゥディウム」は、「関心」「勉強」というような意味内容のラテン語らしい。

そして、写真には「作者の意図、あるいは一般的に関心があるとされるもの」=「ストゥディウム」という枠組みがあり、さらにそれと関係なく、ただ映っている「偶発的な」「へんなもの」=「プンクトゥム」があるのだ、と。(webのみのにわか勉強なので、このあと『明るい部屋』を読んで補強するつもりですが)

あ、それって波多野爽波じゃないか、と思いました。

掛稲のすぐそこにある湯呑かな 波多野爽波

さらにバルトは、写真は「コードのないメッセージ」=対象そのものを指し示す「記号」(対象と光学的に正確に相似である)であり、しかも、「何をどう写しても〈写真〉そのものは常に目に見えない」と書いている。あ、それって、素十に代表される写生句の理想じゃないか、と思った。

桃青し赤きところの少しあり  髙野素十

天気さんの言う「俳句は媒介ではない」という事態は、窓の喩えで言えば、「窓の向こうに景色がある」のではないし、「景色を映すために窓がある」のでもない。ただ「窓=景色」があるだけだ──ということだろうか。

けっきょく写真にしても、「窓=景色」にしても、俳句にしても、そのまま受けとるしかない

そのまま受けとるしかない、ということが、そのまま写真の(俳句の?)本質であるのだが、また、そこに一般的関心や勉強を超える、へんな「突っつき穴」があるか、あるいは、それ自体穴であってこその写真であり、俳句である──と、読みもしないで、勝手にかみ砕いてますが。

だいたい、言いたいことの「前提」は言えたような気がするので、まとめます。


5. 「フェイク俳句」について


「これが嘘だったら何の書く意味があるのだ」と思わせる俳句は、多い。

もっとも上等な例で言えば〈てんと虫一兵われの死なざりし 安住敦〉とか(天気さんの挙げていた〈中年や遠く実れる夜の桃 西東三鬼〉も、そうかもしれないが、違うかもしれない)。

このような句を「そのまま受けとる」ということは、「そう」書いてあるんだから、「そう」なんだろうと、思うことだが、この2つの「そう」の中に「作者=作中主体」という前提は含まれるかどうか。

ここで作者=話者=作中主体、と受けとることは、初期の映画の、機関車をよけたと言われる観客のように、ナイーブな「読み」なのかもしれない。(関連つぶやき 1 つぶやき 2

しかし、この作中主体を作者とイコールではないと観じて、たとえば、上演時間5秒の一幕劇のように読んで、面白いだろうか。「一兵われの死なざりしーっ」(幕)、とか。

あるいは、もし、こういった内容の句を谷雄介さん(1985年生まれ)が作ったら──それは「なんで作ったの?」って聞きますよね(笑)。面白いかも知れないけど、もちろん、それこそフェイクであり、一発芸であろう、と(谷さん、へんなたとえに名前を出してすいません)。

今日の俳句読者一般が、誠実と感じるだろう読み筋は(短歌新人賞の選考座談会のそれと同じく)、内容を「いちおう本当」としてそれを信じられるかどうか、言葉の強度を問う、というものだろう。

あるいは「作者がそう思われようとして書いているんだから、それでいい」と、頭から作者を信じてしまうか。そのあたりが、これらの作にふさわしい読みの深度であって、ここでわざわざ「ストゥディウム」を止揚することは、余計なものの付け加えではないか、とも思う。

(あ、でも〈中年〉の句は、〈夜の桃〉を性的憧憬の対象であると同時に、〈中年〉と相同の存在と読んだほうが面白い、と言うか、そう読める可能性が「プンクトゥム」?)

(そしてどちらの句も、作中人物に感情移入しないほうが、圧倒的に面白いし、読みが豊かになると思う。でも、そのことは、作中主体=作者という枠組みを、打ち消しはしない)

現代俳句は、近代的リアリズムの記憶を、俳句の媒介性、または作者の「正直」性への信頼というかたちで把持しており、作中主体=作者本人という「読み」上の約束事は、その延長線上にある。

つまり、俳句読者は、どんな俳句にも「その向こう側に対応物としての何かがあり」「その何かは作者によって、信じられている」と、信じている。

俳句は、読者に蓄積されたリテラシーに依存して、高度な内容を獲得してきた書き物であるわけですが、作者=話者=作中主体というナイーブネスは、そのリテラシーの(決定的に重要ではないとはいえ)一部であろう、というのが、筆者の今回の結論です。

つまり、俳句は、作者が「正直」であることを求めている。

それなのに。

さいばら天気さんの連作は、天気さんを知る人にとっては、すぐフィクションであると分かる。どこが、と言われると困りますが、ともかく作者は、ああいう人ではないし、ああいう生活もしていない(と思う)。

澤田さんを知る人には、澤田さんはずーっとふざけている人だと分かっている。いや、本人まじめなんですけどね。ぼくらに読ませてくれる俳句は、ともかくふざけているんですよ。

つまり「作者」が信用できない。

それは、小説のようなジャンルにおける「作者と切り離された話者」とか「信用できない話者」と同じではない。俳句の場合、短すぎて、作品内部に話者の地位を確定する「フレーム」(「私の名はイシュマエル」とか、「手記:」とか)を書きこむことが難しいから。結果、話者の地位の不確定は、作者の信用問題に発展する。

くりかえしになるが、俳句は、作者の正直性を、無意識に前提とし、当てにしている。その前提を突き崩すことは、人を、きょとんとさせる。それを、自分は「フェイク」であると感じた。これらの連作は、ストレートに俳句として読まれることを拒否している、と。

ただし。

その前提を踏み越えてゆく、さいばら、澤田作品は、俳句の周辺に「俳句に似たもの」の地位を要求している、とも言える。それは、ジョン・ルーリーが、自分のやりたいジャズをやるために、まず「フェイクジャズ」と名乗って、ニッチを確保したことと、似ている。

(鈴木さんのは、ちょっと違うのだけれど、遊戯性の強いテーマ詠で、正直性を前提にしていない。そこが、さいばら、澤田作品の「不正直」さと共通点があると考え、まとめて「フェイク」と呼ばせてもらいました。それはもちろん、作品の価値の高低ではなく、異質さの強調にすぎません)

で、蕪村なんですけど、〈鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな〉〈宿かせと刀投出す雪吹哉〉は、自分の目には、ちょっとフェイクに見えます。困った。でも、中村安伸さん(1971生まれ)が、今、この内容の句を書いたら、作者名が参照すべき枠となって、逆に、ストレートに見えるかも知れない。安伸さんには信用があるから(笑)。

と、もう、ここまで「フェイク俳句」に、目が慣れてきてしまっている自分を観察すると、前記事にも書いたように、「俳句に似たもの」が、けっきょく俳句になることは、エディプス的宿命のような気もします。


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