2010-12-19

【週刊俳句時評 第21回】山口優夢

【週刊俳句時評 第21回】
ちょうど21回目の時評に新撰21と超新撰21について書く

山口優夢


昨年末出版された若手俳人のアンソロジー『新撰21』の続編『超新撰21』がつい先日発売された。今後このアンソロジーに収録された各作家や各句についての鑑賞、評論はいろいろと出てくるものと思うが、差し当たってこの稿では、この『超新撰21』というアンソロジーの意義を、本家本元の『新撰21』と比較させつつ探ってみよう。

まずは、このアンソロジーがどのような枠組みのもとに編まれたものなのか、確認しておく。21人の俳句作家が100句ずつの自選句を掲載し、各々の作品に対して1ページの小論が付されるという基本的な形式は『新撰21』を踏襲している。『新撰21』との大きな違いは、収録作家の対象範囲である。『新撰21』では、「2009年元旦現在四十歳未満(U-40)で、2000年以前には個人句集の出版および主要俳句賞の受賞のない俳人」が対象であった。これが、『超新撰21』では「2010年元旦現在五十歳未満で、2000年以前には個人句集の出版および主要俳句賞の受賞のない俳人」となっている。

『超新撰21』では『新撰21』のように「U-50(アンダーフィフティ)」とは銘打っておらず、また、帯に書かれた惹句も「降臨!俳句の大人たち」とあることからも分かるとおり、このアンソロジーでは「若さ」は『新撰21』のようには売り物になっていないようだ。世代としてはかぶっているものの、『超新撰21』の方が年代層を幅広く取っているために、巻末座談会で小澤實の言う通り、「スタイルの幅が広がった」という印象がある。

まだ一読した限りで、早急に結論を出すことはできないが、この一書から50歳以下の俳人の世代的な特徴をあぶり出したり、それを『新撰21』と比較したり、ということは難しいように感じた。彼らが一つの共有できる時代背景なり時代感情なりあるいは感覚のようなものをベースにしているという気配は感じられない。それぞれの作者の作っている句に対する価値判断とは無関係に、そのような一つの共有できるベースをこれらの作者に感じないのだ。拙著のことを申し上げて恐縮だが、『新撰21』の際には、『抒情なき世代』という評論集に書いたとおり、若手世代の季語的世界観からの乖離という視点から世代論をまとめることができたが、種田スガル、榮猿丸、小川軽舟というバラエティに富み過ぎた作者たちを一つの線で結ぶことは無理があるようだ。

世代、ということとは少し別の枠組みで、このアンソロジーの構成を見てみよう。

『新撰21』で、対象となる世代に属しながらも大高翔や如月真菜と言った90年代後半にはすでに名前の知られていた作家が入集していないのは、2000年以前に個人句集の出版があるためであった。年齢だけではなく、この基準を設けることによって、『新撰21』は21世紀になって登場した新人たちに絞ってアンソロジーを編む、という明確なコンセプトを打ち上げ得ていたのだ。『新撰21』の入集俳人は2009年時点で18歳から40歳の年齢であったから、2000年時点では9歳から31歳まで。第一句集が出ていなくても確かにおかしくはない。

翻って『超新撰21』の場合は、50歳以下、と年齢の基準を上に引き上げたにも関わらず、2000年以前に個人句集の出版および主要俳句賞の受賞がないこと、という基準はそのままである。このアンソロジーに入集しているのは2010年時点で23歳から50歳までなので、2000年時点では13歳から40歳まで。40歳ということは、『新撰21』に入集する上限の年齢である。

このことから、大雑把に言って次のような傾向が見て取れないだろうか。『新撰21』は10代から20代で頭角を表し始めた、どちらかと言えば早熟な若手俳人を中心に編まれたアンソロジーであり、『超新撰21』は30代から40代で活躍を始めた、どちらかと言えば遅れてきた新人を中心に編まれた作品集ということになる。頭角を表した年代という切口で言うと、ずっと若手の看板をおろせずにいた昭和30年世代は、岸本尚毅と言い、小澤實と言い、長谷川櫂と言い、若くして活躍を始め、今も活躍している者が多い。この特徴は、どちらかと言えば『新撰21』に近いものだ。

『超新撰21』が、昭和30年世代とも『新撰21』とも異なる句触りを持っているとすれば、個々の作者が俳句に対してどこか遅れてきた感覚を持ち、それゆえに俳句外の何かに拠って立ち、句をなしているという事情が大きいのではないか。それが、昭和30年世代の「型」の重視や『新撰21』で言われた俳句想望俳句(この評語が『新撰21』世代を正しく切り取っているかは僕には疑問だが)という印象とは遠い位置に彼らの句を立たせているのかもしれない。特にそれを感じる作者達の句を挙げておこう。

影・クラゲ・雲・この俺も去り行く浜 ドゥーグル・J・リンズィー
すいかバー西瓜無果汁種はチョコ 榮猿丸
なきがらをかこむ老人天の川 杉山久子
夕焼が見たくて放火したという 佐藤成之
出まかせにいふ花言葉萬愚節 久野雅樹
ふくろふを商ふ店に窓がある 上田信治
全人類を罵倒し赤き毛皮行く 柴田千晶

彼らの拠って立つ、俳句以外の何か、は人それぞれである。榮のように自分の日常に執する者、リンズィーのように自然に向き合いつつ異人として父として日本に住む者としての複雑な自意識のありようを句に定着させてゆく者、上田のように感情が発生する前の言語化できるかどうかすれすれの意識を追いかける者、柴田のように女性としての自意識を強く恃む者。あまりに人それぞれであるために、このアンソロジーを一つの塊としてみなすことにはあまり意義を見いだせないというのが実際のところではないか。

一つの傾向に収斂していかない、豊穣かつばらばらな発散の仕方を肯定的に見るか否定的に見るか。ジャーナリスティックな面で言えばそれはあまり肯定的には捉え難いのではないかと思うが、一読者としては、さまざまな俳句を楽しむことができた。僕としては、それで十分だ。

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