2011-01-30

【週刊俳句時評 第24回】山口優夢

【週刊俳句時評 第24回】
俳句総合誌比べ読み

山口優夢


本屋でバイトしていると、一つの分野にいくつもいくつも雑誌が出ていることに驚くことがある。バイク、ファッション、スポーツ、ペット、健康、育児、芸能、etc。

俳句でも総合誌と呼ばれる雑誌が何誌も出ている。何誌も出ているのならば読み比べてみることで、一誌だけ読んでいたのでは分からないことも分かってくるのではないか。

今回の時評は、とりあえず今書店に出ている最新号の総合誌を読み比べることでどんな「俳壇」が形成されているのか、俳句では今何がホットとされているのか、見てみることにする。

「俳句」2月号

特集は「名句が生れる瞬間 転機こそ新境地を拓く」。今回寄せられた17の論考の中で最も示唆に富み、読みでがあったのは、岸本尚毅の総論であろう。

岸本はまず、ある俳人の作風の変化には内側から生じるものと外側からやってくるものがある、というところから書き起こし、内側から生じた例として水原秋桜子、古館曹人の切れ字使用の変化を挙げ、外側からやってきた変化、というのを今回のテーマである人生の転機だと言いかえる。戦争、結婚、療養などを転機とした俳人の例を挙げ、作風の変化に具体的に踏み込んでいる(と言っても、変化の前後の句を一、二句ずつ挙げるにとどまっているが)。

岸本論が総論として実に水際立っているのは、そのような例を挙げながらもなお、「作品と実人生との関係は、検証不可能な仮説である」としているところだ。病気をしたら句がこう変わる、恋をしたら句がこう変わる、という一般化ができない、ということは当たり前ながら、見落としてはいけない前提のはずである。その上で、彼はこう語る。「検証不可能だから無意味というつもりはなく、仮説自体に意味があると考えます」これはどういう意味なのか。岸本の論中でははっきりとは語られてはいないが、次のような意味だろうと拝察する。

それは、過去を振り返った時、俳人の実人生と俳句との間にある種の関係が見出されるという仮説を立てることによって、今後実作者である我々に何らかの転機が降りかかった際にそれを俳句に反映させるためのヒントを見いだせるのではないか、ということに他ならない。現に、先ほど引用した部分の直前には「実作者にとって本当に重要なのは、人生の転機という形で俳句の外からやって来る種々の変化や禍福をどのようにして句のエネルギーに変えていくかという実践的な思考です」とあるのだから、おおよそ間違ってはいないだろう。

では、具体的に先人たちはどのような転機に際してどのように作風を変化させ、新境地を拓いてきたのか。それを語るのは、総論から大変良いパスを回してもらった各論の論者たちであるはずなのだが…。あれれ、それぞれの項目、「恋」「戦争」「出会い」「別れ」「生」「旅」「老い」でそれぞれを転機とした作風の変化が語られるのではなく、それぞれの項目が俳句でどのように詠まれているかを鑑賞しているに過ぎないように見えるのは残念なところだ。

俳人の転機を語るには、作品のみを語るのではなく、俳人の実人生を、文献をあたって調べ、それと作風の変化との相関を見出すという作業があるべきなのに、ほとんどの論者に俳人の実人生を調べた形跡がない。そのような各論の中で面白いと思ったのは、齋藤愼爾が岸本論の全く真逆の方向で、俳人たちが戦争体験を消化していないために「現今の俳句界に氾濫する俳句がつまらない」と言い放っているところ(できればつまらない俳句の例を示してほしかった)、神野紗希が師や人間との出会いによって安住敦や橋本多佳子が作風を変えたところに言及しているところ(ただし、転機となる出会いの描き方が浅くないだろうか。久保田万太郎の何に影響を受けて安住敦が変わったのか、よく分からない)あたりだった。編集部から各論者にきちんとテーマが伝わっていなかったのではないか、と思えるくらい、統一感がない特集になってしまったところは、残念としか言いようがない。

他の見どころは、1月から始まった新メンバーによる合評鼎談。西村和子、対馬康子、小川軽舟という三者の組み合わせは、なんとなくおとなしすぎるのではないかというイメージを抱いていたが、実際に読んでみると、さにあらず。意見の対立点では各々の論者がきちんと意見を開陳し、論争を行なっている。2月号まで読んだ感じだと、結社の主宰として日々多くの俳句を見ているだろう西村和子と小川軽舟に、対馬康子が押されている印象を受けるが、今後10カ月、この3人の論争がどのように展開してゆくか、楽しみだ。

今号の発表句で印象に残ったものは次の通り。

松枯葉かすかに人の住みゐたり 長谷川櫂
神帰る大庭只海(にはたづみ)夜を湛へ 中原道夫
洞どこも禽獣が占め山眠る 鈴木貞雄
誰からぞ軍歌はじまる闇汁会 吉田汀史
手袋を忘れましたよ日溜りに 川島葵
サンダルの薄き足跡寒椿 小野あらた

「俳句界」2月号

特集は「やっぱり季語が好き」。タイトル通り、季語というものに好意的な態度を取る記事が多い。

「私の好きな季語」と題されたエッセイでは、水原紫苑、八木健などのいわゆる文化人が自分の好きな季語を挙げてそれにまつわる短文を寄せている。それにしても坂東三津五郎の挙げる季語が「虎が雨」で、内田春菊の挙げる季語が「香水」では、あまりにイメージ通り過ぎはしないだろうか。

それはともかく、季語についての論考の中では、江里昭彦の論に考えさせられた。季語を「長持ちしそうなもの」「有効性に疑問が生じつつあるもの」「ほうっておいても早晩退場し自滅するもの」の3種類に分け、「梅雨」を第2のグループに、「炭・火鉢・囲炉裏・砧」を第3のグループに分類する、という手つきは、季語の現実的な分類として実に鮮やかだ。失われゆく季語を追憶したり、季語を残すために努力しなければならないという方向に論が進んだりしないのも、すがすがしい。

それもそのはずで、江里はこの論考を夏石番矢の提唱した「季語からキーワードへ」のことから書き起こし、それがすでに20年も前に提唱されたにも関わらず未だにキーワード(あるいは詩的中核語)を季語の代わりとする俳人が出てこないとしつつ、季語が今後さらに力を持たなくなった時、もう一度「季語か?詩語か?」を問いたいと言うのだ。つまり、彼は季語がゆっくりと滅び、自分たちの支持した詩語がそれにとってかわるのをじっと身をひそめて待っているのだ。

江里が期待(?)するように「キーワード」が季語にとってかわるとは僕には思えないものの(もし本当にそれを期待するのなら季語の崩壊をじっと待つ前にやることがあるはずだ)、俳句が現代を描こうとする限りにおいては、季語体系は何らかの形で変化してゆく必要があるのかもしれない。あるいは、季語体系ではなく季語に対する我々の意識が変わるべきなのか。確かにこれは、季語というものが現在抱えている最も根本的で悩ましい問題であるようだ。願わくば、そういった季語にとっての根本的問題を論じた論考をこの特集でもっと読ませてほしかった。

今号の発表句で印象に残ったものは次の通り。

人の日の灯下せつなく蒲鉾板 池田澄子

「俳壇」2月号

今号の「俳壇」は、俳壇賞発表号。選考委員は宗田安正、辻桃子、鳥居真里子、富士眞奈美、宮坂静生の5人。今年度の第25回俳壇賞は、「鶴」所属の亀井雉子男氏の作品「鯨の骨」。

白魚をすすりて舌のもつるるよ
軍鶏鍋の骨をしやぶりて暑気払


など、さすがに佳句が多いという印象。選考座談会では、候補作を9作品も挙げて論評しており、沢山の作品が俎上にのぼるのはいいのだが、その分受賞作を絞り込む選考過程が短いというか薄いというか淡い。

最終的に高得点を獲得した「鯨の骨」と「ららと」の二作は、「伝統的」「俳味が勝っている」「ベテランの俳句」と、「現代的」「これからの可能性」「新しさ」を感じさせるものと、という対照的なものだった。このどちらを取るか、というのは、俳壇賞の性格を決定づける(選考委員が何を重視しているのかを示す)上で大変重要な場面だったのだと思うのだが、どちらにも票を入れていない富士眞奈美は「対照的なお二人ですが、主張しません」と判断を留保し、最終的には司会が「三人の選者の方が「鯨の骨」に挙手をされましたので」ということで、受賞が決定している。そもそも、「ららと」が本当に新しいのか、という吟味ももっと必要だったのではないか。

鬼貫青春俳句大賞のように選考過程を公開で行なったり、角川俳句賞や俳壇賞のように誌上で選考過程を公表したりするのは、こういった賞では時折見られることだが、選考委員がどこまで作品の選考を追い詰めて考えているのか、如実に出てくる点が興味深い。

巻末についている誌上句集シリーズ、今号は成瀬櫻桃子。不勉強な僕は正直名前を見るのも初めてだったが、なるほど、いいなあと思う句がいくつかあった。

さくらんぼさざめきながら量らるる

のような写生句も素敵だし、

そらんずるモーゼ十戒梅雨の闇

の、「そらんずる」には迫力がある。

今号の発表句で印象に残ったものは次の通り。

汝がゆき綿虫がゆき吾がゆき 佐久間慧子
むかしよりけむりは白く手毬唄 塩野谷仁
からっぽの電池が重い蝶の昼 井上さち(俳壇賞候補作)
ダンサーの乗り来る渡船夏の雲 小田玲子(俳壇賞候補作)
天下取る手相を持たず心太 高橋白道(俳壇賞候補作)
かりがねや送るとは立ち尽すこと 伊藤政美

「俳句四季」2月号

座談会「最近の名句集を語る」(第12回)では、齋藤愼爾、対馬康子、山田真砂年、筑紫磐井の4人が佐藤清美句集「月磨きの少年」、上田日差子句集「和音」、岩田由美句集「花珠」の3句集について語っている。「和音」という句集のことはほとんど知らなかったが、

ハンカチのかたさを胸に納めけり
夜を飼ふクリムト画集そぞろ寒


など、素敵な句があることを知れたのは良かった。

ただ、座談会自体が読みものとして端的に面白かったかどうかは疑問が残る。「名句集を探る」というテーマで挙げられた句集だから、否定的意見が出づらいのは分かるが、それぞれの評者がそれぞれの句集をほめるだけならむしろ鑑賞文をそれぞれ書いた方が良かったのではないか。

岩田由美句集については、齋藤愼爾が「あまり感心しなかった」と否定的見解を述べているが、感心しなかった理由を追い詰めて語ることをせず、中でも「まあまあいい」と思った句を挙げるにとどまっている。俳壇に対して「編集者や書評を担当する俳人は、決まったページ数内で何冊か採り上げてほしいと言われた時にどうしても、全然知らない人よりは知っている人を取り上げようという気持ちが働くんでしょうね。文学の世界にも日常の論理を持ち込む」と舌鋒鋭く批判しているその調子が、個々の句集や作者に対してはやや鈍るところがあるようだ。

その座談会の直前のページにある「人と作品『星野紗一全句集』」では、全く知らなかった星野紗一の句に面白いものを見つけた。

石榴割れる村お嬢さんもう引き返さう
電話帳逆さに提げ昭和二十九年は長かりき


のような思い切った句もいいし、

額田王の筆はむらさきはなずはう

は、堂々たるものだ。

今号の発表句で印象に残ったものは次の通り。

軍艦とおでんとにある喫水線 坪内稔典
靴音を聞きつつ死んでゆく兎 神野紗希

二人とも知っている人…。

「俳句あるふぁ」2・3月号

宇多喜代子の連載「戦後の百俳人」が面白い。今回は第11回目で、鎌倉佐弓、杉浦圭祐。対中いずみ、橋本榮治、山西雅子、5人の自選10句を鑑賞する。押したり引いたり上げたり下げたり、とにかく俳句を通じて若い世代と向き合おうという気概が感じられる。

たとえば、鎌倉佐弓の

泣けるだけ泣いてひまわり直立す
明日へ飛ぶ桜ふぶきを見にゆかん

駆けながら梅を咲かせているのは誰

の三句を挙げて「それぞれの花に主情を託して、静止した時間と流動する時間をよく表現している」とまとめているのは、紙幅があればもっとつっこんでほしいところだが、うまく書くものだと思う。

宇多喜代子の鑑賞が全てだとはもちろん思わないが、我々若い世代とほぼ同時代の作家の俳句が上の世代からどう見えているのかをつぶさに語っているこうした資料があることで、初めて我々の目線との違いもつまびらかになるのであり、そういう意味でこれは大変貴重な企画だと思う。

特集では「蛇笏入門」と題して飯田蛇笏を取り上げている。来年で没後50年になるそうだ。「蛇笏への15の質問」では、蛇笏が詩人として「白蛇幻骨」など、小説家として「飯田蛇骨」と号していたことや、蛇笏の句碑は一つしかないことなどが知れて、ちょっと面白い。

今号の発表句で印象に残ったものは次の通り。

陽炎の中であるらし手を振ろう 池田澄子

感想

それぞれの総合誌の特集は、俳人の転機、季語、蛇笏入門など。どれを読んでも、また、全部読んでみても、俳句では何がホットなのか、探るのは難しいということが分かった。それは、よく言われるようにそもそも平成俳壇が無風だからだろうか。

否、「俳句界」の江里昭彦の論考のように季語が現在置かれている根本的な問題点をきちんと洗い出しているものや、「俳句」の岸本尚毅の論考のように俳人の転機を語ることがどのように実作に影響を与えるのか真摯にとらえようとするものもある。彼らの論をとば口として特集が編まれていたら、もっと違った景色が見えたはずだろう。

総合誌では何かが掬いきれていない、という印象を強く持たざるを得ない。

それと同時に、いろいろな人の最新作が一堂に会しているというのは、やはり総合誌の魅力の一つのようにも思った。


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