2011-05-01

週刊俳句時評第29回 被災と俳句 関悦史

週刊俳句時評第29回
被災と俳句

関 悦史


最初に個人的な被災状況を記しておく。
3月11日の大震災で茨城県土浦市の私の家は屋根瓦が崩れ落ち、ブロック塀も損壊した。壁土、風呂場も罅だらけとなった。本や家財は言うまでもなく部屋中に倒れ、飛び散った。隣近所も同様。
最初の3,4日、電気、ガス、水道が止まり、近所の家に避難させてもらってしのいだ。半壊れの廃墟のようになった真っ暗な家で、繰り返す激震に一人で耐えるのがきつかったせいもあるが、避難先がプロパンガスの家だったため、そちらでは火を使った調理もできた。
飲み水の入手に難渋し、中学校の給水車や、井戸を開放していた民家、寺の湧き水を容器を持って転々とした。
トイレはありあわせの物で自分で作った。
断水が解かれ、灯油が入手可能となり、入浴できるようになるまでに半月かかった。
屋根は未だ落ちたままで、ブルーシートだけかけてもらってあり、落ちた瓦で使えそうなものが庭に積んである。
屋根が落ちた家が100軒や200軒ではないので、屋根屋の手配がつくのは3ヶ月先だと工務店に言われた。
その話を市役所の住宅相談会場でしたら、3ヶ月とは、今まで聞いた中で一番早い、皆大体3年後だと驚かれた。今のところ見積もりすらいつ出してもらえるものかわからない。そしてその見積もり額が工面し得るものかどうかも。
怪我がなくて済み、家屋も全半壊はしなかったという意味では被害は軽微だったが、家も街も何年先になったら復旧するのかは、見当がつかない。

そういう立場、状態から、この1ヶ月の震災と俳句がどう見えたかという話である。


3月13日には早くもネット上で「季語歳ブログ」(http://kigosai.sub.jp/002/)というところが震災俳句・震災短歌の募集を始めていた。

  危機管理総理はいづこ春の雨  長谷川冬虹
  この国に底力あり花辛夷     朋子
  震災の瓦礫に降るや春の雪   ゆうこ

これらは特に出来がいいとか悪いとかではなく、早い時期の投句から適当に引いた。政権への苛立ち、咲く花に託した励まし、テレビ映像や想像をもとにした被災地想望といった、見る前から想像のつく要素が大体初期から出揃っている。
今回の大災害のテレビ映像を、私はほとんど見ていない。始めの何日かは停電でテレビが映らず、自宅に戻ったらすぐアンテナが余震と暴風で倒れ、屋根全体が傷んでいるので手のつけようもなく放置してある。大体、体を壊しながらの水やトイレの確保に追われ、テレビどころではなかった。避難先の家で一度津波の映像を見ただけである。上記の「震災俳句」も私が気がついたのはかなり日数が経ってからだったが、見て、気が滅入ったというよりは、何とも白々した気持ちになった。
この時期、震災のショックから出てきた、「俳句で励ます」とか、「俳句は無力か」といった言説を、それらに対する批判も含めてよく目にしたが、一番納得がいったのは俳人の言葉ではなく、『東京スポーツ』に載ったというビートたけしのインタビューだった。

こういう時にさ『芸人は被災地に笑いを届けることしかできない』なんて意見もあるけどさ、そういうのは戯言でしかないんだよね。メシがちゃんと食えてさ、ゆっくり眠れる場所があって、初めて人間は心から笑えるんじゃないかな」(http://www.j-cast.com/2011/03/21090939.html

被災者側から見ると、「励ます」というスタンスがそもそも酷なのだ。次の瞬間自分に弾が当たるかもしれないと理性ではわかりつつも、しかしまさか自分がという無根拠な楽観のもとに突撃する戦場の兵士と同様、私も未体験の大揺れに揺さぶられ続け、本棚が倒れる込んでくるのを見ながら、まさか自分の家が壊れるとは思っていなかった。命を落とした被災者も、最後の瞬間までまさかと思っていたはずである。「さりながら、死ぬのはいつも他人ばかり」(デュシャン)。命を失いはしなかったまでも、壊滅的な打撃を被ることになった人たちはみなこの「他人」の位置へと暴力的に自分が追い落とされたことを感じたことと思う。
「励ます」というアクションは、無事に済んだものからこの「他人」へかけるものであり、いかに善意に満ちていようと、それとは無関係に「励ます」という行為そのものによって、無事な者と「他人」となってしまった被災者との絶対の懸隔をまざまざと見せつけるのだ。
この励ましを「挨拶」の一種と捉えるならば、時機を失していると思われる。葬儀に参列したら遺族を励ます前にお悔やみを述べ、悼むのが先決ではないか。まして今回の震災ではまだ死傷者数の確定も出来ておらず、断水が復旧していない地域もあり、原発事故収拾の目途も立っていない。

「俳句は無力か」という問いも、直接被災地に役に立つことができるかという意味であればナンセンスだが、しかしこれは「俳人」と自己規定している人間が、大災害を目にして、それと自分との間にいかなる関係の道筋をつけることが出来るかが見出せないという困惑が露呈しているという点においては、それなりに誠実な問いなのだとはいえるかもしれない。だがその困惑が直ちに「俳句=自然=日本」といったイデオロギー強化や、それへの随順に回収されてしまう、被災をも俳句をもともに陳腐化してしまう光景を見せてほしいとは思わない(小野裕三「今回の大地震に関連して思うこと」がその例)。大災害に当たっての日本人の冷静と礼節を褒め称えた海外の報道に対し、それも一つのオリエンタリズムではないかとの言説を見かけた。日本人は本来自然と調和した云々の言説は、そうしたオリエンタリズムの無自覚な内在化に他ならない。


『俳句』と『俳句界』の五月号が、東日本大震災の句を特集している。
角川『俳句』は一人一句で、それに三行ほどのコメントがつく形式だが、そこで髙柳克弘と神野紗希が俳句と力/無力の問題に触れている。


  さへづりや光さしくる雨の芝   髙柳克弘

詩歌は社会に対する実効的な力を一切持たないが、そのことを恥じる必要はないだろう。役に立たなければ存在意義が無いという考え方が、原発を生んだのだから。今後も何の役にも立たない俳句を作っていきたい。

  暁鴉・睡魔・マイクロシーベルト   神野紗希

「詩歌の力」という語の乱用を避けたい。本当の詩歌の力は、何も言わなくても、しずかで深いところで、変わらずはたらくと思っている。

髙柳克弘のコメントを私流に敷衍すると、これは合理性・有用性を全否定して脱却をはかるといったことではないし、無用であること自体に居直る裏返しのロマンティシズムやイロニーでもない。合理性と非合理性、有用性と無用性という、異なる水準においてどちらもそれぞれ機能していなければならないバイロジカルのうち、前者すなわち合理性や有用性の圧倒的な肥大化と暴走に対し、後者、非合理性や無用性を育みかえす道を探ること、その潜在する経路の一つを詩歌に求めたものとして捉えるべきだろう。

私個人の状況に戻っていえば、俳句は思いもかけない形で役に立った。もちろん句自体を通してではないが。
被災直後と、停電が復旧して以降、携帯電話からツイッターで自分の置かれた状況を実況し続けたせいもあるのだろうが、発生直後から救援物資を送るという申し出が殺到し、それが九割方俳句つながりの人たちからの申し出だったのだ。私は結社も句会もほとんど無縁に近い過ごし方をしてきたので全く想定していなかったのだが、一度しか会ったことのない人、一度も会ったことのない人まで含めて助けの手が幾つも現われ、ガスが止まって調理が出来なくても食べられる食糧、飲み水、薬、ティッシュ等の消耗品があちこちから一斉に送ってもらえた。1ヶ月経ってずいぶん減ったが、未だに段ボール四箱分くらいが台所に残っていて、個人的には過去最高の食糧備蓄量である(ついでにいえば、被災直後の印象では、救援物資を送ってくれる人は震災俳句に批判的、または関わらない人が多かった気がする。しかしいち早く震災俳句を作りだしてしまった人たちも、まさか身近に被災者がいれば必要な物くらい送ろうとしただろうし、救援物資や義捐金を送ってくれた人たちからも、1ヶ月経った今では震災を詠んでいる人も出てきているので必ずしも「救援物資」と「震災俳句」は二項対立ではないのだろう)。

句自体に関しては、私自身は被災後しばらくは読みも作りもしなかった。読もうにも現実と俳句の間でリアリティのチューニングが一向に出来なかったし、自分の体験を句にするにしても、現実生活が未だに何をどうしていいかわからない状況が続いており、それを句の形にまでまとめる生成・変形の回路が見つからなかったのだ。
最近ようやく少しずつ句作も再開し始めたが、この混乱の期間、「詩歌の力」は「休止符」の形で現われたのではないかと、後付けで思い始めている。休止符のない音楽はなく、休止符は重要な音符のひとつである。
余震につぐ余震、大気や水道水の放射能汚染に脅かされる変動のさなか、先行き不安のなかで句を作ることは難しい。意識するしないに関わらずわれわれは二重の生を生きている。時間的に限られた個人としての生と、発生以来現在に至るまで一度も死んだことのない生命の連続自体としての生とである(死ぬのは常に個々の生物である)。後者を「客観」とか「物自体」とか言い換えてもいいかもしれないが、極度の緊張・不安・恐怖は、この二重性から生じる大らかさや余裕を奪い、前者の、ただ一個の生命しかない個体としての生、危機としての現在に、虫ピンのようにわれわれを刺し止めてしまう。句作が難しかったのはそのためだ。俳句という形式において、こうした「客観」や二重性が失われることは致命的なことなのではないかという気がする。短歌や自由詩はその点、そこまで致命的なことにはならないのではないか。


被災した当事者が句を作ることで苦痛を昇華していくという形での「詩歌の力」の現われとして際立ったのは、被災地宮城に拠点を置く『小熊座』の主宰高野ムツオだっただろう。震災後、『小熊座』四月号を既に刊行し、3月23日の読売新聞には短文とともに《泥かぶるたびに角組み光る蘆》1句を発表したという。
「角組む」は角のように芽が出ることをさす。植物が希望と再生の象徴になっている点は他の多くの震災俳句に共通するが、当事者であるだけにまだ易々と花は咲かない。粘り強い意志の力を形象化している。


たしか多田道太郎ではなかったかと思うが、俳句とカメラをアナロジカルに捉えているエッセイを読んだことがある。素人からプロまでそれなりの水準で一瞬の光景を切り取れるといった点に類似を見出していたのではなかったかと思う。
読んだのは20年以上前のことで、さほど感心もした覚えはないのだが、今回このカメラと俳句の類似を思い起こすきっかけになったのは、被災地で大量の写ルンですを配り、避難者たちの視点で当地の模様を撮ってもらうプロジェクトを目にしたからである[1]。カメラを向けられ一方的な観察の対象とされることは、場合によっては武器を向けられるに等しい。ここでは被災者がその武器を手に持つことになった。そこから生まれるのは、スローガンかキャッチコピーのような紋切型の被災地写真とはいささか異なる、静かに輝き出る普通の生活の尊さとでもいったものだ(http://www.rolls7.com/)。
被災地において、俳句がこのような形で現われる可能性、被災した人がこのような形で「詩歌の力」の恩寵を受ける可能性は今後ある。


では被災地以外に住む者は震災を詠んではならないのかといえば、そうは思わない。
角川『俳句』の震災俳句特集「励ましの一句」(この題名については前出の理由で、あまり励まさないでほしいと思う者だが)は、作者の年齢順配列なので筆頭にあるのが金子兜太の句なのだが、兜太がコメントなしで出したのは次の一句だった。


 津波のあとに老女生きてあり死なぬ


テレビにこういう映像はおそらくよく現われたのだろう。私程度の被害ですら、稀に3月11日に死んでいたほうがよかったのではないかとの思いが頭をかすめる。しかし個々の思いがどうであれ、実際の生死はそれとは全く無関係に分かたれる。この句は大災害の後、死ななかったという酷さとして現われた生を、他者として突き放し描写するのでもなく、過剰に寄り添い励ましているわけでもない。自分の生の全体験の内部へと受容し、響き合わせ、そして、内側から照らし返すようにして、老女の姿を立ち上げる。これは人に人を救うことは出来ないという厳然たる事態を前にして、俳句がとり得る一つの倫理の形だろう。


[1]……ROLLS TOHOKU 3/31-4/3

《今回の震災が起こった3月11日、「ROLLS of one week」という私主催の写真企画展が開催されていました。
その中で、同じ国にいながらも直接手を差し伸べることができないことに無力感を感じていたのですが、一人の人間としてただ無力感に苛まれてる場合じゃないと、現地に大量の写ルンですを持って向かいました。この「ROLLS TOHOKU 3/31-4/3」は3/31〜4/3の被災者の目線の被災地の記録です。
復興までには、私たちが思うよりずっと永い時間がかかるはずです。ここでの写真をみて現地に対して何かしたいと思う方がいましたら、是非行動してください。
自分の信じられる方法、信じられる機構を利用して、どうか被災地により多く、より永く支援を届けてください。》http://www.rolls7.com/



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