週刊俳句時評第30回
美が脱ぎ捨てた服のこと
「傘」vol.2「ライト・ヴァース特集」を中心に
神野紗希
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詩(あるいはヘビー・ヴァース)の目的とするところは、美の形態への理解を追求することである。それに対して、ライト・ヴァースの目的は、美が脱ぎ捨てた服の方が美しいという誤解を奨励することである。(西原克政著『アメリカのライト・ヴァース』(港の人 2010年2月)内「Morris Bishop.”Light Verse in America”in the Comic Imagination in American Literature.New Brunswick:Rutgers University Press,1973,259.」引用部分)英文学者で、ライト・ヴァースの作品を多く残した詩人、モリス・ビショップの、エッセイ中の言葉だ。「ライト・ヴァース」は、「ヘビー・ヴァース」(≒旧来の詩)のカウンターであるということを忘れてはいけない。
「美が脱ぎ捨てた服」。それは一体、どんなものを指すのだろうか。
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「俳句におけるライト・ヴァース」といったとき、大きく分けて二つの切り口がある。
一つは、「俳句そのものにライト・ヴァース性がある」という切り口。これは、俳句の本質論に切りこんでゆく論じ方だ。その過程では、芭蕉が晩年に至った「軽み」の思想が切り離せないだろう。そもそも、俳句の出自そのものが、メインカルチャーだった和歌へのカウンターだったのだから、俳句性そのものに「ライト・ヴァース」の要素が深く関わっていることは、異論をさしはさむ余地がない。この場合、ヘビー・ヴァースとは、和歌のことを指す。
もう一つは、「ある特定の俳句をライト・ヴァースと名指してカテゴライズする」という切り口。これは、俳句の表現史を編む上で、重要な意味を持つ。つまり、「新興俳句」「社会性俳句」「前衛俳句」と同じ並びで、「ライト・ヴァース俳句」を位置づけるわけだ。それは、ある一時代のムーブメントを指し、ある程度、特定の作家を名差しすることになる。「新興俳句」というとき、そこに富澤赤黄男や渡辺白泉が外せないように。「前衛俳句」というとき、そこに金子兜太や高柳重信が外せないように。「傘」vol.2の越智友亮・藤田哲史の論じ方は、こちらに属するだろう。管見する限り、短歌におけるライト・ヴァースも、主に後者の角度から論じられてきたようだ。
この場合、ヘビー・ヴァースは、同じ俳句の範疇内の、別のタイプの作品(特に伝統的であり主流をなしているもの)を指す。
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片山 いま、普通の人が旧かなで自分の思いを述べるなんてことはありえないですよ。そういう意味でも、上田三四二さんが短歌を「日本語の底荷」と言ったのと同じで、ごく普通の人が俳句や短歌を作り、旧かなで、文語で表現するという伝統を絶やしてはいけないと思う。(「俳句」角川学芸出版 2011年1月号)片山の言は、俳句と短歌は出自が違うところに、「日本語の底荷」という短歌の論を俳句にも適用させたこと自体、ちょっと無理があると思うが、こうした「伝統を絶やしてはいけない」という姿勢は、ヘビー・ヴァースを担う気負いのあらわれであろう。現在の俳壇は(少なくとも、俳句総合誌の企画や俳人協会のさまざまな受賞作や記事を管見する限りは)、多かれ少なかれ、伝統に連なろうという考え方や、ヘビー・ヴァースとしての俳句を尊重する思いが感じられる。
それに対して、「傘」vol.2の越智友亮の総論は、俳句を、伝統詩ではなく、現代詩として捉え直そうとしている。
季語の連想性や象徴性を用いるのではなく、季語の重量を限りなく薄めたものを用いたもの。また、古典的情緒から隔たっているが、対峙もしておらず、季語を切りはなし、現代の瞬間を切り取るような姿勢によって生まれるものここには、現代俳句におけるヘビー・ヴァースへの問題意識が感じられる。俳句が、現代の詩たりうるには、どうするべきか。いや、というよりも、今を素直に詠むために、どうすればよいのかを考えているといったほうが、より近い。越智は、作品においても、それを探っているようだ。前回取り上げた、「焼きそばのソースが濃くて花火なう」も、そう。
(中略)
ここへきてようやく俳句は古典的情緒と訣別しつつあるのではないか。(中略)あるいは、それは歳時記から解放された平明な世界であり、またその連想性を注意深く拒むことで再構築された、言葉の世界をも意味する。
(越智友亮「総論 俳句におけるライト・ヴァース」/「傘vol.2」)
ここで越智が本当に主張したかったのは、「季語の重量を限りなく薄めた」(「傘」前述項より引用)俳句の可能性だったのではないか。ライト・ヴァースという用語をテーマとすることで、どうしても「ライト・ヴァースか否か」ということが問題の中心になってしまうが、実際には、季語の重さを、一句を構成する他の言葉と、同程度に軽くした句の可能性を語りたかったようにみえる。そして、そのことのほうがきっと意味がある。「2000年以降、季語を言葉として捉えなおす傾向がより強まってくる。それは歳時記の一部だけがリアルになってしまった生活の顛末」「歳時記から解放された平明な世界であり、またその連想性を注意深く拒むことで再構築された、言葉の世界」(「傘」前述項より引用)は、私にとっても非常になじみのある世界であり、居心地のいい場所だ。そこから眺める歳時記の世界は、異国の面白さこそあれ、私自身にとって、たとえば月は草や木と、扇風機は窓や本棚と、詩語として同程度のものでしかない、という気がする。
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冨田拓也が、面白い指摘をしている。
とりあえず新興俳句系の作者たちは措いておくとして、戦後における俳句作品をいくつか取り上げてみた。やはり俳句における「ライトヴァース」ということを考えるとなると、「短歌」の状況と併せてどうもこのあたり(加藤郁乎・阿部完市・坪内稔典・松本恭子・山田耕司・岩田真光:神野注)を問題にする必要があるのではないかという気がする。(特に1980年代)たいへん大雑把にいえば、坪内稔典や阿部完市らは、表現の軽さを武器に、どこか現実離れした、異様な世界を作り出した。坪内の「三月の甘納豆のうふふふふ」も、阿部の「ろうそくもってみんなはなれてゆきむほん」も、甘納豆や蝋燭という、非常に具体的なものを引き合いに出しているにも関わらず、具体的な状況をリアルに想像できる句ではない。
あと、この俳句における「ライトヴァース」の問題については、所謂「新古典派」(このレッテルで一括りにしてしまうのも少々問題であるが)ともいうべき、伝統的などちらかというとアナクロニズムを指向する、辻桃子、長谷川櫂、千葉皓史、小澤實、岸本尚毅、田中裕明、中田剛、中岡毅雄、小川軽舟などの作者の存在についても考える必要がありそうである。(中略)もしかしたら、この「新古典派」の作者たちの作品というものも、時代的な側面も考慮に入れて考えると、ある種の俳句というジャンルにおける「ライトヴァース」の表現であり、「サニーサイドアップ(目玉焼)」である、という可能性も考えられないでもないのではないか、という気のするところもある。
(―俳句空間―豈weekly「俳句九十九折(79)」)
坪内の句は、「甘納豆」や「うふふふふ」という言葉自体の持つ明るさが、「三月」という季節感(「弥生」ではない、という点も重要)と混ざり合って、全体にふわふわしたやわらかい印象を残す。阿部の句は、重々しい内容に対して、平仮名表記を用いたことで、読む人に狂気を感じさせる。漢字で書かれていれば、歴史絵巻の一ページという雰囲気だが、平仮名にすることで、そうした具体的な状況を思い浮かべるよりも、平仮名の恐ろしさが前に出るのである。マザーグースと似たようなからくりである。
一方で、「新古典派」の中には、文語を用いながらも内容を軽くすることで、新しい風合いを俳句に与えた作品もある。草田男や波郷、兜太の句と、彼らの句を比べてみれば、その違いはたしかにある。
短歌の世界にやってきた、「ライト・ヴァース」と呼ばれる口語のアナクロニズムは、俳句において、もしかしたらこのように、影響していたのかもしれない。今になって振り返ると、そう思う。
では、ひるがえって現在。たとえば「傘」で挙げられている私の句(「コンビニのおでんが好きで星きれい」「どこへ隠そうクリスマスプレゼント」etc)や、『新撰21』(邑書林)の越智の句(「冬の金魚家は安全だと思う」「今日は晴れトマトおいしいとか言って」etc)のように、口語的表現を使い、なおかつ内容も軽くなったとき、その薄っぺらな俳句に、それでもサムシングがあるとするならば、そのサムシングを生みだすのは、一体なんなのか。私は、そこが知りたい。
「美が脱ぎ捨てた服」は、たとえば口語や俗語であり、コンビニのおでんのような、古典的情緒のない瑣末なものでもあるだろう。これは、時代によって変わる。時代によって、ヘビー・ヴァースが変化するからだ。でも、本当のところは、そうした「脱ぎ捨てた服」が「美しいという誤解」を生じさせるメカニズムのほうに、こうした句の本領が隠されている。誤解が生じなければ、それはただの薄っぺらな言葉に終わる。
(了)
1 comments:
季語を軽くし、口語表現を用いることで、より軽く定型詩一般の持つ口誦性に乗っかることが出来るという事ではないでしょうか。五・七のリズムに唄を感じるのは、多くの人たちに刷り込まれた感性でしょうし。内容的部分は、唄と感じ取ったその後に、後付的にもたらされるのかも。それと坪内氏の「甘納豆」の句は、連作中の1句のはずですが、1句のみ抜き出して語る場合と連作中の1句として見るときとではちょっとその句の見える姿が違ってくるかも。もちろん連作中の特定の句のみが生き残ることは結構あることのようですが。
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