週刊俳句時評・第44回
主体に関する短い質問状
生駒大祐Yes or No or文章でお答えください。
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Ⅰ.あなたのその俳句内で行動しているのはあなたですか?
例:澄雄さん、あなたの「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ」の中で、あなたは「さう思」いましたか?
Ⅱ.あなたのその俳句内で認識しているのはあなたですか?
例:不器男さん、あなたの「人入つて門のこりたる暮春かな」の中で、あなたは「門」を見ていましたか?
Ⅲ.あなたの俳句内の人称代名詞は実在の人物を指していますか?
例:虚子さん、あなたの「虹たちて忽ち君の在る如し」の中で、「君」は本当に愛子さんを指していますか?
Ⅳ.あなたの俳句内で行動し、認識しているのはあなただと読者に思ってもらいたいですか?
例:波郷さん、あなたの「バスを待ち大路の春をうたがはず」の中で、「バスを待ち」、「うたがは」ないのはあなただと読者に思ってもらいたいですか?
Ⅴ.あなたの俳句を表現しているのはあなたですか?
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資料
角川「俳句」2011年9月号 合評鼎談 より
(「雲海の底に妻らは働けり 中村安伸」 に対して)
西村和子(以下西村) 奥さんがいるんですか、中村さんには。
対馬康子 います。
西村 ふうん。自分は高見から見ているという感じね。
spica 「よみあう 番外編 山口優夢と男性・女性俳句についてちょこっと語る」より
野口 じゃあ、山口優夢さんの句っていうのはどうですか?出たばかりの第一句集『残像』(角川学芸出版)とか。作ってるとき、編んだときに、男性性を意識しますか。
山口 しないねー。
野口 「梅雨長し髭はつぶやくやうに生え」。
山口 たまたま、素材が男性特有のものだった、っていうくらいで、意識はしてない。
野口 そうですよね。女性も、たまたま、素材が自分のからだとか、自分の身辺ってことなんだと思うんですよ。
山口 でも、作者のレベルと、評論のレベルは違う訳じゃないですか。僕の髭の句が、男性性の発露で…みたいな評論を組み立てられたら、僕としては何にも言えないというか、たしかに、という。
神野 そうですよね。だから、女性俳句の場合も、安易にそういうことが行われてきたふしはある。読者の側の問題ですよね、女性俳句っていうのは。そりゃ、ふつう、そこまで、創作するときに自分の性別なんて意識しない。
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回答例
生駒大祐 24歳 男性
●初学のときに読んだ入門書(どの本かは失念)に、「俳句上で特になにも書かれていなかったらその作中の主体は作者なので、「我」などとわざわざ言うことはない」というようなことが書かれていた。
●小説において主人公を小説の作者だと思う読者は(あまり)いない(*北村薫が覆面作家だったころ、読者の中には作者を「円紫さんと私」シリーズの「私」と同じく女子大学生だと思った読者もいたらしい。これも出典失念に付き以上余談)。また、随筆の中で行動している人が作者ではないという読者も(あまり)いない。京極夏彦の小説の中で、「小説だと思っていたものが実は随筆であった」という話があったが、それはそのずれを体現したものだろう(これは出典を覚えているが読者の心情を推し量ってあえて書かない)。
●小説はフィクション(作中の主体≠作者)、随筆はノンフィクション(作中の主体=作者)だと思った方が、僕にとっては「面白く」読める。小説か随筆か分からない文章は、面白いと思った方で読む。
●そして僕は、俳句は作中の主体=or≠作者のどちらだと思った方が面白いかまだよくわかっていない。
●角川の鼎談を読んで、西村氏は俳句をノンフィクションとして読んでいるのだと思いちょっと衝撃的だった。しかも、中村安伸という特にフィクション性が強いと僕が思っている作者の作品に対して。これが作者と作中の主体について考えるきっかけになった。
●さて。
●spica「よみあう 番外編」の一連の発言に対して僕は少し違和感を持った。
●引用の最後の神野氏の「創作するときに自分の性別なんて意識しない。」という発言からは、作中の主体と作者はイコールであるという視点に立っているように思われる。
●それはおそらく俳句世間一般がそのような視点に立った読みをしていることを受けての発言であろう。また、女性俳句という言葉の定義は人によって異なる。しかし、同記事における神野氏の「でも、そうすると、乳房とか詠んだり、女性っぽいたおやかな詠みぶりだよね、っていうことを言うのと同じことだなって思って、なんか不毛な気がしちゃって。」という発言を鑑みると、神野氏の言う女性俳句とは必ずしも作者が女性であることを前提としないように思われた。
●「夏の少女が生態系を乱すなり 大牧広」の作中の行動主体は明らかに女性であろう。そしてその行動主体は十分に女性性を持って存在していると思う(少女性と言った方が良いが、少女性⊆女性性として解釈してください)。しかし、この俳句が女性俳句になりえないと僕が考えるのは、この俳句の背後にその行動主体を観察している表現主体がいることを感じるからだ。そして、その表現主体は作者とはまた異なる。僕は大牧氏の性別を存じ上げないが、仮に大牧氏が女性であったとしても、この句の表現主体に性を感じることはないだろう。
●ちょっと混乱してきたのでまとめると、現代においては女性が作ったから女性俳句、という簡単な話ではないはずだろうということだ。読者が女性性を感じるというのは作者でなく表現主体に対してであるので、それは作者にも「制御可能」だろうということ。それは決して「読みの問題」だけではない。自身の俳句における表現主体に女性性を纏わせるかどうか制御することすらできない作者の俳句に面白みを感じることは僕にはできない。また、自身の俳句に自分が纏わせてもいない女性性を勝手に感じる人など放っておけばよいと思う。
●吾子俳句、病床俳句、女性俳句、そして男性俳句。俳句にはさまざまなジャンルがあるけれど、それらが成功するのは表現主体を作者が制御し、自己のプロデュースに成功した結果だ。時間の限られた人生、俳句を読む前に必ず作者のプロフィールを聞き込みに行くような読み方はしたくない。
●もちろん、そこに面白みを見出す人を否定することはできない。ただ、僕はその読み方をすることはないだろうということは思う。
●そういう意味では僕はいまのところ、作者≠主体に面白みを感じていることがわかる。
●これが、上の質問状に対する現時点での僕なりの回答である。
●
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