〔週刊俳句時評47〕
ユリイカ(2011.10月号)「現代俳句の新しい波」
ふたつの印象
上田信治
次号特集は「やくしまるえつこ」、別冊?総特集は「魔法少女まどか☆マギカ」と、もはやそういう雑誌である「ユリイカ」。
今月発売号の特集「現代俳句の新しい波」から受けた、印象をふたつ書きます。
まず、新作10句より。各作家の一連の10句めです。
朝寒やフレーク浸る乳の色 髙柳克弘
アルベルト・アインシュタイン兎の名 神野紗希
白菊にあかるき我として我は 佐藤文香
僕だけが君を泣かせられる 石榴 山口優夢
耳かきの綿毛使わぬ夜の秋 長嶋有(小説家/俳誌「恒信風」)
ブランコを姪に譲るな未亡人 西加奈子(小説家)
RT@yonemitsu テラワロスwww 米光一成(ゲーム作家)
オリバー・カーンの等身大パネルが作る日陰にコケ せきしろ(放送作家)
もう会わないというふりだから待て 又吉直樹(芸人)
空にカッターを当てて さよならエモーショナル 山口一郎(ミュージシャン)
またあの子? 凱旋門が蔦まみれ 千野帽子(エッセイスト)
すさまじき警笛を見る二百の眼 堀本裕樹
俳句プロパーでない人、多めです。
はい。そして、特集巻頭の鼎談(川上弘美・堀本裕樹・千野帽子「読むところから俳句ははじまる」p.54)の、千野帽子さん発言の、こういうところ────
東京マッハでも言ってるんですけど、「俳句を作るのは句会のため。句会をするのは飲み会のため」なんですね(笑)(p.57)
だから俳句を「文学」として捉えたり、作ることが楽しいと思ったりしていると、俳句の楽しさはぴんと来ないと思います。やっぱり他人の句を読んで、また他の人たちの読みを聞いて、ということまで含めてゲームとして楽しいんです。(p.59)
あるいは、同じ千野さんの「二十分で誤解できる現代俳句」(p.200)と言う記事中の、このあたり────
子規は俳句からゲーム性をなくして近代芸術にしようとしたのです。(…)グレーゾーンの不安定さこそが俳句を豊かにしている。子規や復本一郎のように川柳に似た俳句はダメ、と言いつのるばかりでは、俳句は純粋【ひよわ】になるいっぽうです。(p.202)そして、千野さんが、新傾向、自由律、人間探求派を、ひとくくりに「心の叫び」系と名付けて、説教ヤンキーだの、絵手紙ポエムだの、アーティスト気取りだの、遅いだのと、軽蔑をあらわにしていること。(p.205/p.210/p.214)
────などなどを、新作10句の人選と、重ね合わせてみると
ここには、俳句における高度な達成をめざす専門性に対するリスペクトは全くないな、と。そのリスペクトの欠如は、俳句のゲーム性を強調し、文学であることを低く見つもる千野さんのスタンスから来ているな、と(*)。
ていうか、
俳句は誰でも書ける
と思ってるな、と。
(今、あえてこの特集の企画者と、千野さんをごっちゃにしてますけど、これ、特集全体からそういう印象を受けた、っていうことですからね。そう思っちゃった、という話)。
いや、ま、誰でも書けますよ。たしかに、俳句は誰でも書ける。書けますけどー……なんで、それを人に読ませていいと思ったんだろ。
というわけで、
ときどきあるんですよ、ミュージシャンや小説家の描く漫画。古くは、泉谷しげるとか、筒井康隆とか、デビュー当時の酒井法子とか。最近だと中川翔子もやってたな。
たいがい目も当てられないことになる……というのは、漫画には、最低限「漫画になってるかどうか」というラインがあって、それは一目瞭然だから。
* 同記事中、新興俳句については「モダン都市文学とシンクロする表現」(p.208)「モダンアートや実験文学・前衛芸術に応接しようとするかのような作が数多く見られるのです」(p.209)というような、前衛俳句については「俳句という分野の外延が当社比最大のものになった(…)こういう作品が容認され歓迎される場所は風通しがいいと私は思います」(p.212)というような、一定の評価が与えられています。
どうやら、モダンや前衛は千野さん的にOKで、俳句にナシなのは近代「文学」であるらしい。
あと余談ですけど「自作を言語ゲーム呼ばわりされることを迷惑に思う俳人もいるでしょう(…)けれど、私がここでゲームと言っているのは(…)あえて言えば「言葉へのリスペクト」と呼ぶしかないもののことなのです」(p.212)という箇所、ゲームという用語の範囲がずらされているように見えます。
俳句のゲーム性であれば、季語と定型と句会がその中味であって、明確に定義可能です。千野さんがここで言い出した「ゲーム」=「「言葉へのリスペクト」と呼ぶしかないもの」って、それ、要するに文学だから。
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では、印象2のほうに話は移ります。
それぞれ、前述の「二十分で誤解できる現代俳句」という記事から、千野さんです。
俳句の世界の外側にいる者の個人的な理解を以下のお手紙に記します(…)あなたでないだれか────俳句のことをすでにわかっている人が────このお手紙を盗み読むこともありましょうけれど、その人に申し上げたいのは、過大な期待はしないようにということです。読んでも「すでに知っていること」か「千野帽子の勝手な誤解」しか見つからないでしょう。(p.200)俳句やってる人間は、読むな。こっち来んな、と言われているようです。
俳壇とは「俳句のことをすでにわかっている人にむけて言葉を発する人たちが形成する場」のことです(…)いま俳人は、結社に所属せずとも、総合誌に書く機会がなくとも、個人誌やウェブ上でのみ俳句を論じるだけで、「俳句のことをすでにわかっている人」を読み手に想定することができます。そのときその俳人は俳壇の中の人なのです。(…)同人誌やウェブ上に見られる「俳壇批判」も「俳句のことをすでにわかっている人」向けに書かれている以上(…)俳壇を形成します。(p.214-215)お前もお前もお前も、俳句の内側にいる者なんだから、ともかく、読むな、何も言うな、と。
ところが、俳壇の外で俳句の話をするのは意外と簡単でもあります。特定の結社・同人誌・句会・俳句団体に所属していない人間が、「俳句のことをすでにわかっている人」を読者に想定していない媒体に註文されて書けばいいのです。《ユリイカ》や《日経ビジネスアソシエ(またはオンライン)》が私に発注したように。お前ら、アマチュアだから、商業誌から注文来ないだろ、ざまあ、と(いや、印象ね、印象)。
ところで、千野さん自身は「俳句のことをすでにわかっている人」なんでしょうか、自己申告としては?
あとtwitterで、やっぱり千野さん。
→評論の根拠にかんする市川氏の根源的な問いは私も留学中から抱えているもの。外に向かってなにもかも説明する義務もないけれど、「これが批評の振る舞いだ、外の人が勉強不足のままなに言ってんだ」でも済まないんです。 11/10/03 12:09
→「中の人」から見たら「批評は公開オナニーではない」「俳句は公開オナニー(orお稽古事)ではない」「外の人は実情を知らずに言ってる」らしいのだが、さて「外の人はなぜそう考えるんだろう……これが原因かな」って考えたり仮説を呈示したりする人が出てきてもいいころだ。「評論」関係の話が入ってきてるんで、分かりにくいですが、ともかく、千野さんは、自分が俳句について書くことに関して、「中の人」に何っっっっにも言われたくないらしい。
11/10/03 12:45
→「そんなこと考えなくても俺は楽しく批評(俳句)を読んで書いてるから満足だぜ」というなら、そういう人は「外の人」が勉強不足のまま文句を言うのにたいして冷笑的な態度を取っちゃダメ。言い返さないで黙って楽しんでればいいじゃん。11/10/03 12:48
この特集、いろんな人が書いてしゃべってますけど、こんなふうに「俳句をわかっている人」との断絶を強調し、その視線や批判を忌避している人は、他に誰もいません。何なんでしょう、これ。
何なんでしょうね。
もし怒られたら? そのときは私たち、いっしょに手に手を取って逃げるんですよ、笑いながら。だいじょうぶ怖くない、あなたの手はぜったい離さないから。約束する。(前述記事の終わり部分)笑いながら、逃げるんだそうです。
コドモ? いや、ちがうな、ガイジンだな。ガイジンだから、中の人が怒って石を投げてきたら、笑いながら逃げるんだな。
千野さんが、ガイジンだとしたら、私たちは、土人かもしれませんね。
で、今あげた全引用をひっくるめたところから受けた、印象その2。
いや、そこはふつうに入植地って言えばいいのかな。
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3 comments:
Twitterでつぶやこうと思ったのですが、ここへ(Twitter風に)コメントします。
こうゆう話題はTwitter内だけでやるよりは、表に出した方がいいんじゃないかと思ったので。(続く
ひとつ思うのは千野氏が「中」、「外」を区別して、自分を「外」の人間だと位置づけ、「外」から「中」を批判することはあっても「中」から「外」への批判は拒絶するという姿勢でいることに違和感を覚えるんじゃないだろうか。いわゆる「中」の人たちは。(続く
また、自分を「外」の人間だと位置づけてしまえば、批判されたり突っ込まれたりしたときに「私は外の人間ですから~」といういい訳がとても有効に使えると思うんですね。(続く
もちろん、氏が批判されたときのための伏線として「中」、「外」という枠組みを設定しているわけではないとは思うんだけど、そういう受け取られ方をされてしまう可能性はあると思う。(続く
「中」、「外」を区別することによってスッキリすること、解決出来る問題というのがあるにはあるとは思うんだけど(結社の人間関係とか、お稽古事傾向とかに付き合う必要がなくなったり)、(続く
でも、考えてみれば東京マッハにゲスト参加の池田澄子氏にしても、メンバーである堀本氏にしても千野氏の言う「中」の人、「外」の人という設定に当て嵌めてみれば、二人とも俳句の世界の「ど真ん中」にいる人だと思うんですよね。(続く
俳句に関われば関わるほど「中」、「外」という設定にはそういう無理が生じてくるのではないか。(続く
それでも仮に俳句の世界に「中」、「外」という枠組みが存在するとするなら、その枠組を挟んで「中」と「外」を敵対させるよりは、枠組みをひとつずつ外して風通しをよくしてゆく努力をするほうが建設的ではないか(東京マッハのやってることは結果的にそういう行為であるように見える)と思うんだけど、どうなんだろう。(続く
「俳句は面白い」と感じた地点からその先、俳句とどうかかわってゆくかは個人的な問題であって、大切なのは、かかわり方云々よりも個人の在り方なんじゃないかな、と。(続く
俳句との「かかわり方」で躓いちゃうと(つまり、作らなくてもいい敵を作っちゃうと)その先にある俳句の面白さやもっと本質的なところまでなかなか辿り着けなくなっちゃうんじゃないかなと、そんな気がしたんです。(おしまい
「俳壇の外で俳句の話をする」のには、
俳句関係者向けでないメディアで
俳句を取り扱うことも含まれると思いました。
本来俳句とは関係なかったテレビ番組「プレバト」で俳句コーナーを持って
人気コーナーに仕立て上げた夏井いつき先生の最近の活躍も、
「俳壇の外で俳句の話をする」ことの一つに含まれそうな気がします。
これが同じテレビ番組でも、NHKの俳句番組などとなると「俳壇の外」とは少し違うような。
ユリイカのこの号をアマゾンで購入し読みましたが、千野さんが記事で示した「中の人」というのは全国各地に存在するであろう、旧態依然とした「主宰等と呼ばれるお師匠さんの言うとおりに俳句を作り、またそのお師匠さんの評価・考え通りに事が進んでいく、閉ざされたシステムの中にいる人たち」の事ではないかと読み取りました。
そういう意味では、ネット上という互いに評価し合える開かれた場で俳句を作ったり楽しんだりする人たちは、千野さんの記事内で言う「中の人」には当たらないのではと感じます。
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