俳句が夢を見るとき
~村上春樹氏の発言を受けて
小野裕三
『海程2011年11月号』より転載
「私たちは夢を見ることを恐れてはなりません。」――これは、村上春樹氏が3.11を受けて発表したスピーチ「非現実的な夢想家として」の一節だ。脱・原発の主張として広く報道され、賛否もあった。しかし、ここには脱・原発だけに留まらない視点が含まれている。
一点目は、今回の原発事故を「日本人の倫理・規範の敗北」とした点。二点目は、それを克服するのに必要な「新しい倫理・規範」に文学(小説)も貢献できうる、とした点。
まず一点目の指摘は、勇気のある発言だ。実際に悲しみや困難を抱える人々がいる中で、「そもそも君たちの倫理が間違っていたのだ」という主張には、さすがに反発もありうる。しかし、〝人災〟と言われる今回の事故は、人や社会の側に何かの問題があったと考えるべきで、だからこそその根底にある「倫理」という厄介な領域に踏み込む必要がある。
また二点目だが、これまでの文学の流れからは踏み込んだ斬新な視点と言っていい。3.11を受けて俳句界では、「被災者を励ます」俳句を作る動きが起こり、それに対して「俳句(もしくは言葉)は無力だ」との反発も見られた。あるいは別の視座で、まずは人の生死という現実を俳句で見つめようとする意見もあった。それぞれに説得力があるが、しかし明らかな〝時代の転換点〟の前で、文学史の現代的論点としては違う気がする。それに対して、村上氏は「新しい倫理」を作るための「夢を見る」ことに、いわば〝現代文学のフロンティア〟があると明確に位置付けた。ここに文学史の大きなパラダイム転換がある。
それでは俳句に何かできるのか。実は、「新しい倫理」とは、原発事故を受けた〝文明と自然との関わり〟をひとつの主軸にしている。とすれば、他の文芸以上に「自然」に深く関わってきた俳句が、その本質を新しい形で蘇らせることで「新しい倫理」に貢献しうる可能性は充分にあると考える。俳句と自然という組み合わせ自体には特段の新しさはないが、その繋がりを現代的に再生させることが結果として「文学」の新しさにも繋がりうる。
ともあれ、国際的にも大きな影響力を持つ同時代作家の一人が、「新しい言葉」について勇気を持って発言した内容だ。勿論すべての俳人が同意する必要はないが、提示された論点に意見を持つべきだろう。「今の日本人の倫理には何の問題もない」「倫理の問題は認めるがそれは文学の関与すべきことではない」「村上氏の主張は正しいが俳句は文学ではないので関係がない」などの異論もありうる。ともあれ今必要なのは、俳句や小説といったジャンルを越えてアクチュアルな時代の課題に真摯に向き合うことだ。この発言に見て見ぬふりをすることは俳句の〝自閉〟でしかない。
そして何よりも氏の主張の核心は、まず「夢を見よう」とする動機自体こそが「新しい言葉」を獲得する原動力となり、これからの文学を変えうる、と喝破した点にあると考える。今こそ、俳句も恐れずに夢を見るときなのだ。
※村上春樹氏のスピーチ全文は、下記にて読むことができます。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/85518.html
※蛇足ながら、私自身の脱原発に関するコメントはこちらにまとめました。
http://www.kanshin.com/keyword/5414340
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