2011-12-11

〔週刊俳句時評54〕文学としての俳句に対する二方向からのアプローチ―高岡修『死者の鏡』とブックフェア「アナザー文学の現在」 関悦史

〔週刊俳句時評54〕
文学としての俳句に対する二方向からのアプローチ
―高岡修『死者の鏡』とブックフェア「アナザー文学の現在」

関悦史

高岡修の評論集『死者の鏡――新純粋俳句論のための手紙』(ジャプラン)は俳句をまず以下のようなものとして受け止める。

 

「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて」俳句は「進化の最先端」であり、その「結果が最短詩である」。「もしこれをしも文学だというなら、それはいったいどういう構造として成立しているのか。」「私は(……)ひたすら現在という視点から見つめた現代文学論を書きたいと思ったのである。」(以上、あとがきからの抜粋)。


俳句におけるさまざまな約束事を自明のものとしては扱わない詩学的なアプローチであり、「現在という視点から」とは、俳句を通時態(歴史的)によりもまず共時態においてとらえるということを、さしあたりは意味する。

思想書等からの引用が多数あるのだが、その中で、高岡修の基本的アプローチ法を示すと思われるものは以下の二つ、記号的秩序の自律性を暗示するマラルメと、関係論的世界観をテクストに応用してみせるメショニックである。


《私が“花”と言う時、私の声は、はっきりした輪郭を何もあとにのこさず、すぐに忘れられてしまう。が、同時にわれわれの知っている花とはちがった、現実のどんな花束にもない、におやかな、花の観念そのものが立ちのぼるのである。》(マラルメ「詩の危機」)


《ひとつの語はもはや単にひとつの語というのではなく、〈テクストの中におかれたもの〉つまりコンテクストなのである。そこから隠喩に関する新しい考え方が生じてくる。文が語の意味をつくるのであって語が文の意味をつくるのではないのと同様に、作品の中で語の意味をつくるのは作品であり、文体を成すのは作品であり、文体が、作品をつくるのではない。》(アンリ・メショニック『詩学批判』)



マラルメの「花」という発語と同時に現実の花は死に、不在の花が立ち上がるという事態は、高岡修のいうとおり富沢赤黄男の「蝶はまさに〈蝶〉であるが、その〈蝶〉ではない」というアフォリズムの土台を成しているのだろう。

ここから《蝶墜ちて大音響の結氷期》の、句日記における制作過程つまり

 ①冬蝶のひそかにきいた雪崩の響
 ②蝶絶えて大音響の結氷期
 ③蝶墜ちて大音響の結氷期

がたどられ、もともとは「結氷期」の側から発生するものであったはずの「大音響」が「蝶墜ちて」と同時に発生したものへと変化し、《墜落することによって大音響を発することのできる詩的エネルギーを獲得するにいたった》、《「蝶」という詩語それ自身となって私たちの時空を越えた》とされることにも異論はない。

そしてこうした解釈の道筋自体が、そのままメショニックの「作品の中で語の意味をつくるのは作品」というテーゼの例示たりえてもいる。

これを言い換えると《俳句言語の意味は俳句という使用のなかでしか決定されない》(p.50)ということになり、そこからさらには西東三鬼の「有名なる街」一連のなかにおける《広島や卵食ふ時口ひらく》の例外的な屹立ぶりもが例示され以下のように結論づけられることになる。


《結局、物象は、関係という構造にあっては皮膚として現前している。(中略)広島や卵や口がそれら自体の皮膚と化した言語としてそこに浮上しているというふうに結論づけたいのである。そして、ここにこそ、モーリス・ブランショの文学への果てしない理想、あるいはまた、ソシュールの言語学やフッサールの現象学やヤコブソンの詩学が、明確な意図として立ちあらわれる。〈表面に、皺に、皮膚に敢然として踏みとどまること〉というニーチェの思想とともに。
 そうして知ろう。人間にとっての本当の自由とは、語りつづけることではなく、〈語ることを止め得ぬもののこだまとなることだ〉ということを。》(p.69)



序盤ではマックス・ピカート『沈黙の世界』やモーリス・ブランショ『文学空間』なども引用されているのだが、この「語ることを止め得ぬもの」とは、ここではほぼ死、沈黙と同義と思われる。


《〈私という意識を熔解させ、沈黙の側に身を委ねること〉――それはすなわち死者の方法である。そのとき時空のいっさいは死者の眼の鏡面にある。》(p.39)


あまりにも話が一般論化してしまっているようにも見えかねない。しかし《俳句という形式にもし思想という言葉を適用しようとするなら、それはゆいいつ俳句という形式のもつ思想というほかない。絶対的な言語量の不足、そしてなお〈切れ〉という存在論的な構造が、人間の個々の思想の介入を拒絶しているのである》とする高岡修の俳句観からは必然的に敷衍されうる話であり、この基本認識自体にもことさら異論はないのだが、それでもある一定の違和感はつきまとう。

この「死」または「沈黙」が妙にロマン主義的な、遠い彼方への到達のイメージすらをも帯びた、重いものとして想定されているように感じられるのがその原因なのだが、言語を物と無関係な体系ととらえたソシュールや、それを踏まえて「現実的なもの」と「想像的なもの」のどちらにも混同されえない「記号的なもの」を活動の根底においたドゥルーズまでが引かれていることではあり、この「死」または「沈黙」は瞑想的な沈潜によって到達しうるような神秘的な領域としてよりもむしろ、ただ単なる非-人間中心主義的な秩序としての記号(言語)そのものと捉えたほうが適切なのではないか。


その意味からすると、秋葉原の通り魔事件の犯人とその(想定されうる)生活環境を例に上げ、現在の現実生活における季語の希薄さから有季定型墨守の立場を批判する以下の件りなどは、〈私という意識を熔解させ、沈黙の側に身を委ねること〉という立場からすれば、いささか俗な文学主義を召喚してはしまわないか。


《……青年には、ただ無機質な感情と、その無機質を取り囲む現代社会の無表情な壁が存在するだけである。
 つまり、その部屋のなかで彼が十七音量の詩を作ろうとすれば、そこに季語の類が入る余地はいささかも残されてはいないのである。それでもなおそこに十七音量の詩が生まれたとすれば、それこそが現代における真の在りようなのだと僕は思う。それこそが世界文学としてふさわしいもののように僕は思うのだ。そうして、その行為は、まちがいなく青年をその事件から遠ざけたはずなのである。
 そのように、じつに切実に現代文学としてあろうとする俳句に対して、季語が無いからこれは俳句ではないとする権利と資格は誰にも与えられてはいない。それは俳句ではなく、別の呼称のものだという論理もまたしかりである。根源的に文学は人間が生み出すものだ。俳句を生み出す人間が、世界の変容とともに激しく変容しているなら、俳句もまた激しく変容せざるを得ないはずなのだ。》(p.97)



一応断わっておけば私自身は有季定型墨守の立場ではないし、俳句形式と現実との間に何らかの有機的な関係は必要ではあろうとも思うものだが、せっかくの「死者の方法」が、もしこうした水準において捉えられているのだとすれば、ごく感傷的で鈍重な、自意識に発する回路を形成して話が終わってしまうのではないかという危惧も全くないではない。

本が手元にないので記憶だけで書くが、内田樹の『死と身体―コミュニケーションの磁場』(医学書院)には、難解な文体をもって知られるラカンの、「もしわかりやすく書いたら彼らは私を許さないだろう」なる発言の「彼ら」を精神分析学における敵対勢力などではなく、大戦の死者たちとして読んだ部分があったはずだ。

「死」または「沈黙」は生きたままでは到達不可能な遠いどこかなどではなく、常に既にわれわれを(ときには具体的な個別の死者たちの相貌も帯びつつ)囲繞し、貫通しているものであり、「記号的なもの」はわれわれと「死」または「沈黙」の領域双方に常に既に跨った体系としてあると想定したほうが、俳句の短さを「沈黙」へと繋げる議論としては、よりのびやかな射程を持ちうるのではないかと思われる。


ところで、文学としての俳句という観点から刺激的な再考を促す機会がもう一つ、全く別な文脈から最近不意にもたらされた。そしてそれが、期せずして『死者の鏡』的なアプローチ法に対するひとつの批判ともなりえているのだ。

紀伊国屋新宿本店で開催されている「アナザー文学の現在――俳句を読まなきゃ文学は語れない」フェアである。(http://www.kinokuniya.co.jp/store/Shinjuku-Main-Store/20111202100235.html)

私はまだ実見できていないのだが、紀伊国屋のホームページで、どういう本が並べられているのかは確認することが出来る。

二部構成のフェアのうち《第二部は、そもそもなぜこのようなフェアを行うのか、すなわちなぜいま俳句なのか、ということを考えるための本を選びました。俳句の本は、ほとんどありません。おそらく俳句は、"もうひとつの文学"と呼びたくなるようななにか不思議な魅力と、ほかにはどこにもない特徴とを持っている、そのことを探る手がかりになりそうな本たちです》というのだが、ここに並べられているのはロラン・バルトやボルヘスのような直接俳句に言及したことのある著作家ばかりではない。

ヴァレリー、クノー、多和田葉子、ナボコフ、ベーカー、宮川淳等々が並べられていて、何のつながりがあるのか一見わかりにくいが、ある審美眼に裏打ちされた一貫した批評性がうかがわれる。

つまり、感傷的で鈍重な自意識にかかわってしまうようなタイプの文学趣味とは無縁の書き手であり、むしろそうした文学趣味・文学主義を軽やかに、徹底的に批判してみせるタイプの、方法意識に富み、「現実的なもの」との安易な癒着を選ばず、「記号的なもの」の次元における軽やかに完結した自律性を旨とするような書き手が選抜され、並べられているのだ。

イタロ・カルヴィーノの『アメリカ講義―新たな千年紀のための六つのメモ』(岩波文庫)もフェアに含まれているのだが、この本で、これからの文学に必要なものとして打ち出されている価値観、すなわち「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」が、おそらくフェアの選書の仕方全体を概ねフォローするものとなっているだろう。

このフェアはそうした本たちと俳句の本とを、店頭において編集し、並べてみせることにより、そうした軽やかで批評性に富んだ作品を多数含む魅惑的なジャンル(たりうるもの)としての「俳句」の再発見へと向け、読者を使嗾・挑発しているのである。「スピカ」vol.1での榮猿丸の用語を借りれば「girly」に。


参考記事:『アナザー文学の現在──俳句を読まなきゃ文学は語れない』のおしらせ ≫読む

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