毎週日曜日更新のウェブマガジン。俳句にまつわる諸々の事柄。photo by Tenki SAIBARA
中山さんの句「亀泣く」は「亀鳴く」ではないでしょうか。
匿名様コメントをありがとうございます。中山さんに確認しました。ママ、ということです。
ご回答をありがとうございました。「泣く」ですか。この句だけ無季と言うことでしょうかね。鑑賞もずいぶん変わってきますね。
匿名さまこんばんは。中山奈々です。コメント、ありがとうございました。昔の人は凄いですね。春の夕闇に聞こえる不可思議な音(声)を、雄亀が雌亀を呼んで鳴いている、なんて発想してしまうのですから!鳴くはずのない亀が鳴くと想像してしまうのですから!そういう発想や想像が、蚯蚓や螻蛄まで鳴かせてしまう。凄い。そうして生まれて来た季語は今日まで愛されてきました。もちろん私も愛しちゃいます。その現れとしての「亀泣く」。亀が鳴くことをもっと具体化したのです。つまり亀の鳴き声の質がより印象的になります。「亀鳴く」からの派生だから、無季ではありません。、、、いかがでしょうか。でも「亀鳴く」と「亀泣く」では印象も違うので、鑑賞も違ってくるかもしれませんね。最後になりましたが、折角の機会なので、「亀泣く」の例句も挙げさせて下さい。亀泣くや医として領す百ヶ村 川畑火川亀泣くや線描の息ととのふる 苅谷敬一両句ともに、『俳句歳時記(春の部)』(1959年 平凡社)より。西原天気さんもTwitterにて「亀泣く」の例句を挙げて下さっています。ありがとうございました。そして長々と失礼いたしました。
有季とは、正しくは「季語が入っている」のではなく「季題がある」という事です。仮に「亀泣く」という季語が歳時記になくても(昔の歳時記や大きめの歳時記には「亀鳴く」の派生季語ないし別表記として載っている可能性はありますが)、掲句は明らかに「亀鳴く」という季題(季語「亀鳴く」の事でない)で書かれていますから有季です。さらに話は脱線しますが、季語歳時記は大きさや編集者により収録季語数や派生季語数が異なりますので、季語歳時記にない季語も多数あります。それでも季語です。また季題歳時記も季題や傍題の用例は一部しか載せていない事が多く、用例がなくても、その題をもとに句が詠まれているなら季語の有無を問わず有季です。たとえば、「週刊俳句」の新年詠の小澤實氏の句は季語なしですが、季題に基づいているので有季です。そして、話は戻りますが、「亀泣く」は季語ですし、「亀鳴く」という季語の派生季語ですし、「亀鳴く」という季語の別表記でもありますし、「亀鳴く」という季題の用例でもあります。
奈々さんの10句から1無造作に押し込んだ券は何を意味するのだろうか鍵はバレンタイン人生を左右するほどのことではなさそうだ勇気をだしてあげたのに 2野外音楽会が想像できる、繋がった椅子に春風が渡ってゆく 3音あわせに亀鳴くが愉快 8コップの中の氷の音を聞いているのではなく音を見つめていると言っている相手の眼がクローズアップされて意味がありそう。10 暗闇に消えた唇と牡丹の芽のとりあわせやがて赤いなっていく、ピリピリした感性が怖いようだ、4と5が難解だったが全句を通して小さな物の中に大きな物が隠れている感じがする
冒頭の匿名です。いろいろなご意見をありがとうございました。勉強になりました。二つ聞いてください。ひとつには、浅学なのか「派生」という感覚がよくわからないのです。傍題とも違うし。「亀鳴く」の派生が「亀啼く」だったらちょっと理解できる。両方人間の行為ではないから。でも「泣く」は人間限定。「笹子泣く」やら「螻蛄泣く」もOKかな、と思うと、先人の積み上げてきた言葉の熟成って何だろうと思ってしまうわけです、例句があろうがなかろうが。もうひとつ、私はこの10句がとても好きです。旧かなと口語体の微妙なバランスも好きだし、水を感じさせる単語がたくさんあるのに都会的な湿り気のなさも好きです。そんな中で3句目の「亀泣く」は、チューニングの音と聞こえないけど気配を感じる亀の声の重なりを嫌って「泣く」にしたのかな、と思いました。でも、どうしても「泣く」の後ろ側に見え隠れする悲しみが句を浅くしてしまわないか、演歌っぽくならないか。なぜ「鳴く」じゃいけなかったんだろう?。そんなことを思ってのコメントでした。最後まで聞いていただいてありがとうございました。匿名のままでごめんなさい。不慣れなパソコン、うまく操作できなくてきちんと名乗れませんでした。
漢詩人獅子鮟鱇です。 「鳴く」と「泣く」について拙見を述べます。 「鳴く」も「泣く」も和語で「なく」と読むかぎりは、どのように「なく」のかは、文脈のなかで識別するしかありません。和語では「鳴く」=「泣く」なのでしょう。 そこで、「亀が鳴く」から「亀が泣く」を連想し、その派生だ、ということもできるのでしょう。 しかし、「鳴」と「泣」は漢語では、音も意味も明確に違い、区別できます。「鳴」は鳥などが声を出すことで、「泣」は涙を流すことです。 そこで、「亀が鳴く」から「亀が泣く」を連想し、その派生だ、と見ることは、漢字の世界ではできません。 「蛙が鳴く」から「亀が鳴く」を連想し、「鶯が鳴く」から「亀が鳴く」を連想することはできますし、「亀が鳴く」から「鶯/蛙が鳴く」を連想することもできるでしょう、ともに声をあげることだからです。しかし、「亀が声をあげる」ことから「亀が涙を流す」ことを連想しろというのは無理です。声をあげることと、涙を流すことは、事象として別のことだからです。声をあげ、涙を流す場合は、「号泣」「啼泣」「哭泣」などと言って、声と涙を区別しつつ重ねます。 さて、「亀が鳴く」という言葉は、生物としての亀は声を出すことはないだけに俳諧味があって秀逸です。 しかし、「亀が泣く」はいかがなものか。生物としての亀、涙を流すことはありそうですし、仮に、亀は涙を流すことがなく、擬人化表現なのだとしても、「亀の涙」を「亀の声」と一緒にして同じ春の季語だとしているのであれば、それはとても乱暴で、季語としての効果は期待できないと思います。それとも、亀は春を喜んで鶯のように鳴き、亀は逝く春を惜しんで泣くのでしょうか。
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8 comments:
中山さんの句
「亀泣く」は「亀鳴く」ではないでしょうか。
匿名様
コメントをありがとうございます。
中山さんに確認しました。
ママ、ということです。
ご回答をありがとうございました。
「泣く」ですか。この句だけ無季と言うことでしょうかね。鑑賞もずいぶん変わってきますね。
匿名さま
こんばんは。中山奈々です。コメント、ありがとうございました。
昔の人は凄いですね。春の夕闇に聞こえる不可思議な音(声)を、雄亀が雌亀を呼んで鳴いている、なんて発想してしまうのですから!鳴くはずのない亀が鳴くと想像してしまうのですから!そういう発想や想像が、蚯蚓や螻蛄まで鳴かせてしまう。凄い。そうして生まれて来た季語は今日まで愛されてきました。もちろん私も愛しちゃいます。その現れとしての「亀泣く」。亀が鳴くことをもっと具体化したのです。つまり亀の鳴き声の質がより印象的になります。「亀鳴く」からの派生だから、無季ではありません。、、、
いかがでしょうか。でも「亀鳴く」と「亀泣く」では印象も違うので、鑑賞も違ってくるかもしれませんね。
最後になりましたが、折角の機会なので、「亀泣く」の例句も挙げさせて下さい。
亀泣くや医として領す百ヶ村 川畑火川
亀泣くや線描の息ととのふる 苅谷敬一
両句ともに、『俳句歳時記(春の部)』(1959年 平凡社)より。西原天気さんもTwitterにて「亀泣く」の例句を挙げて下さっています。ありがとうございました。そして長々と失礼いたしました。
有季とは、正しくは「季語が入っている」のではなく「季題がある」という事です。
仮に「亀泣く」という季語が歳時記になくても(昔の歳時記や大きめの歳時記には「亀鳴く」の派生季語ないし別表記として載っている可能性はありますが)、掲句は明らかに「亀鳴く」という季題(季語「亀鳴く」の事でない)で書かれていますから有季です。
さらに話は脱線しますが、季語歳時記は大きさや編集者により収録季語数や派生季語数が異なりますので、季語歳時記にない季語も多数あります。それでも季語です。また季題歳時記も季題や傍題の用例は一部しか載せていない事が多く、用例がなくても、その題をもとに句が詠まれているなら季語の有無を問わず有季です。
たとえば、「週刊俳句」の新年詠の小澤實氏の句は季語なしですが、季題に基づいているので有季です。
そして、話は戻りますが、「亀泣く」は季語ですし、「亀鳴く」という季語の派生季語ですし、「亀鳴く」という季語の別表記でもありますし、「亀鳴く」という季題の用例でもあります。
奈々さんの10句から
1無造作に押し込んだ券は何を意味するのだろうか鍵はバレンタイン人生を左右するほどのことではなさそうだ勇気をだしてあげたのに 2野外音楽会が想像できる、繋がった椅子に春風が渡ってゆく 3音あわせに亀鳴くが愉快 8コップの中の氷の音を聞いているのではなく音を見つめていると言っている相手の眼がクローズアップされて意味がありそう。10 暗闇に消えた唇と牡丹の芽のとりあわせやがて赤いなっていく、ピリピリした
感性が怖いようだ、4と5が難解だったが全句を通して小さな物の中に大きな物が隠れている感じがする
冒頭の匿名です。いろいろなご意見をありがとうございました。
勉強になりました。
二つ聞いてください。
ひとつには、浅学なのか「派生」という感覚がよくわからないのです。傍題とも違うし。「亀鳴く」の派生が「亀啼く」だったらちょっと理解できる。両方人間の行為ではないから。でも「泣く」は人間限定。
「笹子泣く」やら「螻蛄泣く」もOKかな、と思うと、先人の積み上げてきた言葉の熟成って何だろうと思ってしまうわけです、例句があろうがなかろうが。
もうひとつ、私はこの10句がとても好きです。旧かなと口語体の微妙なバランスも好きだし、水を感じさせる単語がたくさんあるのに都会的な湿り気のなさも好きです。
そんな中で3句目の「亀泣く」は、チューニングの音と聞こえないけど気配を感じる亀の声の重なりを嫌って「泣く」にしたのかな、と思いました。でも、どうしても「泣く」の後ろ側に見え隠れする悲しみが句を浅くしてしまわないか、演歌っぽくならないか。なぜ「鳴く」じゃいけなかったんだろう?。そんなことを思ってのコメントでした。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。匿名のままでごめんなさい。不慣れなパソコン、うまく操作できなくてきちんと名乗れませんでした。
漢詩人獅子鮟鱇です。
「鳴く」と「泣く」について拙見を述べます。
「鳴く」も「泣く」も和語で「なく」と読むかぎりは、どのように「なく」のかは、文脈のなかで識別するしかありません。和語では「鳴く」=「泣く」なのでしょう。
そこで、「亀が鳴く」から「亀が泣く」を連想し、その派生だ、ということもできるのでしょう。
しかし、「鳴」と「泣」は漢語では、音も意味も明確に違い、区別できます。「鳴」は鳥などが声を出すことで、「泣」は涙を流すことです。
そこで、「亀が鳴く」から「亀が泣く」を連想し、その派生だ、と見ることは、漢字の世界ではできません。
「蛙が鳴く」から「亀が鳴く」を連想し、「鶯が鳴く」から「亀が鳴く」を連想することはできますし、「亀が鳴く」から「鶯/蛙が鳴く」を連想することもできるでしょう、ともに声をあげることだからです。しかし、「亀が声をあげる」ことから「亀が涙を流す」ことを連想しろというのは無理です。声をあげることと、涙を流すことは、事象として別のことだからです。声をあげ、涙を流す場合は、「号泣」「啼泣」「哭泣」などと言って、声と涙を区別しつつ重ねます。
さて、「亀が鳴く」という言葉は、生物としての亀は声を出すことはないだけに俳諧味があって秀逸です。
しかし、「亀が泣く」はいかがなものか。生物としての亀、涙を流すことはありそうですし、仮に、亀は涙を流すことがなく、擬人化表現なのだとしても、「亀の涙」を「亀の声」と一緒にして同じ春の季語だとしているのであれば、それはとても乱暴で、季語としての効果は期待できないと思います。それとも、亀は春を喜んで鶯のように鳴き、亀は逝く春を惜しんで泣くのでしょうか。
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