2012-03-25

牛の歳時記 第7回 春寒 鈴木牛後

不定期連載】 牛の歳時記 第7回 春寒


鈴木牛後 春寒く乳房地に垂る獣かな  久米正雄
春寒 古くから用いられている春寒料峭というあの感じである。料峭は春風(東風)の肌にうすら寒く感じさせるさま。つまり余寒と同じ内容であるが、同じ寒さでも、春の一語にこころ寄せたところがある。(講談社日本大歳時記)
掲句の獣とは乳牛だろう。乳牛以外に、乳房が地に垂れている動物などいないからだ。ではなぜ、「牛」と言わず「獣」と言ったのか。音数の問題もあるかもしれないが、それより、「獣」という言葉の、心理的に突き放された感覚を重視したものだと思う。「牛」が人に近く暖かいイメージであるのに対し、「獣」にはどちらかといえば冷たさを感じる。そこが、季語「春寒」に通じているのだ。 もう3月も下旬となり、本州では桜の便りも聞かれる頃となった。今更「春寒」でもない、という気もするが、当地では3月でも夜は氷点下となるということもあって、「春寒」はいまだ実感である。 これから書く話は、今月初旬のことで、まさに「春寒」の頃のこと。私はときどきではあるが、札幌の句会に参加している。 今月も参加することに決めて、ヘルパーさんも頼んで準備万端だった。 ヘルパーさんのことは以前も書いたが、酪農家が休日を取るときに、代わりに搾乳などの仕事をしてくれる人のことだ。 そんな句会の前々日のこと。突然1頭の牛が立てなくなった。乳牛は身体が重く、運動不足の上、過重な労働(乳を出すこと)をしていることもあって、立てなくなるなどのアクシデントはそれほど珍しいことではない。それでも、この牛についてはちょっと予想外だった。 早速獣医さんを呼んで診てもらったのだが、はっきりした原因はわからず、一般的な注射と点滴をしてもらうことになった。その日はけっこう寒い日で、仕事をしている分にはそれほど感じない寒さも、牛の傍らでじっとしているとだんだんと身体に沁みてくる。 牛の点滴は人間よりはずっと早く入れられるのだが、それでも15分や20分はかかる。その間、牛の生気を失った眼を見ながら、私も身体の力が抜けていくのを感じていた。おそらくは回復しないであろう牛に対する哀れみ、1頭の牛を失うことの経済的な損失、それに、楽しみにしていた句会に出られない悔しさ、そんなことが混ざり合って、余計に寒さに対して無防備に晒されていったように思う。 このような話を書くと、まるで私が大切なペットを失ったように悲しみに浸っているように感じるかもしれない。しかし、実際にはそれほどの感慨はない。 牛の生死は、季節の移り変わりのように私の目の前を通り過ぎてゆく。そうでなければ、牛飼いなどはやっていられないからだ。あれから何頭かの子牛が生まれ、1頭の老牛が肉用として市場へと売られていった。そして、雪を照らす日差しは、一日ごとに強くなってきているのである。 春寒や膝より低く牛のこゑ  牛後

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