たとえば十年以上先に、
「先輩が、波多野爽波が好きって言ってたけど、どんなのかなぁ」
と俳句甲子園を目指す高校生が、ネットで検索して本稿にたどりつく、なんてことも有り得ない訳ではないですよね。そういう意味で、週刊俳句って速報性も去ることながら、アーカイブとしても凄い。2020年代の高校生俳人、見てますか。
さて、だいぶ終盤に入ってきた第一句集『鋪道の花』。今回は昭和27年から28年の句。この頃から雑誌創刊の話が出始め、28年春には誌名が「青」に決定。創刊に向けての動きが現実的になっていきます。
翡翠のとばざることの底意あり 『鋪道の花』(以下同)
翡翠が止まっている、それだけのことながら。ただ止まっている訳ではなく何か狙いがある、そんな目付きだ。川魚を狙っている? そうかもしれないが、断言はできない。人間には、翡翠の思いの全ては分からない。そんなことを思わせる「底意あり」である。
赤と青闘つてゐる夕焼かな
遥か西を見やれば、急激に成長し続ける夕焼け、上へ上へと青空を押しやろうとする。しかし青空もそうやすやすとは押しやられぬ。夕焼けを下へと押し返し兼ねない力強さを湛えている。感覚と写生の高い次元での融合であり、絵画的な色彩感覚が活かされている。
遠くまで灯は及ぶもの月見草
広々とした夜の闇に、思いの外遠くまで届く灯の光。中七の叙述に込められた軽い驚きのようなものが、そうした眼前の景を一層新鮮な、実感のあるものとしている。灯の色に照らし出された月見草が、広々とした夜の闇の中に、点々と浮かんでくるようだ。
鋪道ゆくふと萩の枝さしいでて
今となっては未舗装の道の方が珍しいぐらいで、在って当然の「鋪道」だが、当時の街はどの程度舗装されていたのだろう。掲句のニュアンスとしても、やはり鋪道はまだ人工的な印象であり、その人工的なるものへと飛び出てきた萩の枝の自由さを際立たせる。
羽子をつくとき長身の妻にして
爽波その人は水泳で鍛えたスポーツマンだが、妻はどうだったのだろう。ゆったりした詠みぶりは、夫婦で羽子を打っていたというより、妻と子が興じているのを眺めている、そんな感じが似つかわしい。ゆったりした中にも、妻への瑞々しい感情が窺われる句。
干物の雫きらりと梅に近く
物干しに近いこの梅は、神社などの立派な梅ではなく、親しみやすい庭の梅に違いない。干し物と梅の距離の近さが、小ぢんまりとした庭の景を窺わせる。後年の〈すぐそこにある湯呑〉などと同じく、物と物との距離感が周囲の景や空気まで浮かび上がらせている。
春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか
春暁の明るい日差しを弾き返す無数の光。「落ちてをらぬか」というくらいだから、やはり地に目が行く。草の上の滴や点々と散らばる水溜りの輝きであろうか。この無数の光の中の一つが、ダイヤモンドであるかもしれぬ、そんな気を起こさせる眩さ。
●
0 comments:
コメントを投稿